ニュージャージー・ターンパイクの自家用車専用線、BGMにはJunior Wells、車を走らせながら、高山の気持ちはゆれていた。 「クアラルンプール(KL)は遠い、だが、俺が、意を決してKLに行けば、メンバー全員が揃い、すべてはうまく行く筈だ」 しかし、”そのこと”のためだけに、仕事を一週間も休み、且つ、旅費など$2,500も自腹を切るだけの価値があるのだろうか。 日系大手企業の米国駐在員として独身生活を謳歌しているとはいえ、30万円近いカネをポンと遊びに費やす決心は容易ではない。 まして、今回はたった二晩ブルースハープを吹くだけの旅だ。 ニューヨーク〜東京〜KL、常識的な判断では、当然答えは「No」だ。 メンバーの皆だって、まさか俺が、わざわざNYから行くとは思ってはいない筈だ。 悩むことはない「今回は残念ながら無理だ」と、一言だけ電子メールで送れば、それで終わりではないか。
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ことの発端は、今年(2014年)の9月初旬の須藤(Drums)からの再結成召集メールだった。 いや、正確には、その5ヶ月前、前河(Guitar)のカミさんからのFaceBookメッセージから、と言ったほうが良いかもしれない。 14年前から2年間ほど、マレーシアの日系企業現地駐在員9人で活動していたブルースバンド「Deep South Blues Band(通称:DSBB)」のメンバーで、 ただ一人音信不通であった、最年少の高山(Bluce Harp)の居所を、前河のカミさんがネットで突き止めて、 そろそろ再結成ライブの機運が高まっていると、希望を込めて伝えたのだ。 バンドはメンバーの帰任などで自然解散していたが、KLに残っている5人のうち、リーダー青山(Guitar)を除き、 須藤、前河、篠原(Piano)、栗田(Sax)は、個々に、アマチュアながら現地のパブなどで演奏をしている。 日本に帰任した竹之内(Bass)と、ベトナムのハノイ赴任中の三浦(Organ)は、仕事の合間にセミプロのような演奏活動を継続しているが、 ライブパフォーマンスで要の存在である小笠原(Vo.)は、日本帰国後は、活動の機会もなく、完全に歌から遠ざかっていた。
須藤の再結成召集メールは、当人の言動と同じく極めて簡潔だった。 内容は「11月1日(土)小笠原(Vo.)の勤務する会社のマレーシア現地法人関連のイベントで演奏出来る者は連絡セヨ!」だけだった。 ここには「(自社の現地法人なので)小笠原が日本から来る」とさえ書かれていなかった。 しかし、メンバーほぼ全員が「これを機に12年ぶりに全員集まれ」との内容だと解釈したのだ。 そして、その裏には、以前からバンドのパトロン的存在であった、小笠原の元ボス(現地法人社長)の「粋な計らい」があることを察知したメンバーさえ居たという。 その後、メンバーの参加表明が増えて来たため「演奏出来る時間の短い会社のイベントとは別に、俺たち独自のフルライブを!」ということで、篠原が懇意にしているStarCafeというパブと交渉して「One Night Stand」というタイトルで、2セットのライブがブッキングされ、B.B. Kingをモチーフとしたフライヤーまで作成されたのだった。 おまけに、メンバー共通の友人でドラマーでもある吉岡が、再会リハからライブの一部始終の映像を撮ってくれると言う。
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車内にBuddy Guyの甲高い声が響く、高山は「不参加」のメールを送る方が賢い選択だと頭の中では思いながらも、心では、既に「行く!」と決めている自分に気づいていた。 後方の車からのパッシングをうけて、減速し過ぎた車のアクセルを踏み込んだとき、もう心は決まっていた。 「バカと言われても良い、男って、たまに合理的でない選択をするもんなんだ。南極に行って海に飛び込んだときを思えばチョロいもんさ」 頭の中では、KLの小さなクラブで、長いシールドを引きずりながら、ハープを熱演する自分の姿が、鮮明にイメージ出来るのであった。
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「今回の旅でマレーシア、いや、東南アジアの旅とは暫くお別れだな」 溜まりに溜まったマイレージを利用して乗った、ベトナム航空クアラルンプール行きの機内で、三浦は長かった東南アジア生活をふりかえっていた。 大手通信社の現地支局長を転々とした日々も、もうじき終わり、来年初頭には日本に帰任になる予定なのだ。 今回のマレーシア滞在中に54歳になるので、そろそろ海外駐在員生活も卒業だ。 個人的には、ライフワークでもある「東南アジアの政治」に、ずっと関わって居たい気持ちも大きい。 多数の民衆を殺した為政者から、国籍を変えてオリンピックを目指すマラソンランナーまで、様々な人間を、取材を通して見て来た。 「所詮は人間のやること」だが、正義や美徳の定義は、アリストテレスの時代から現代に至るまで曖昧なままで、自分にも未だ分からない。 こんな激変する東南アジアの矛盾を肌感覚で分かっている自分が、日本本社で、地方紙毎に論調をかえた社説なんかを書けるとも思えない。 しかし、子供の教育や家族の将来を考えると、ここらが潮時と思うしかない。 「おもしろきこともなき世をおもしろく」会社からの辞令に身を委ねるのみだ。
三浦にとって、今回の「再結成召集」は、まさに渡りに船だった。 帰任前にもう一度KLで旨いマレーシア料理をたらふく食っておきたかったし、仲間たちにもまとめて逢える。 そして、なにより、もう一度、このバンドのフルメンバーで思いっきり演奏をしたかったからだ。
今日のパイロットもベトナム空軍の出身者なのだろうか、飛行機は荒々しくKLIAに着陸した。 オルガンの音源モジュール、ドローバーコントローラー等の機材や、必需品のガムテープが入った、ずっしりと重たいバッグをコンパートメントから降ろし、到着ロビーへ向かう。 数ヶ月ぶりのKLだが、勝手知ったる自分の庭のようなものだ。 「また、ライブで暴れてやるか!」 呟きながら歩く頭の中は、もう、「家族」も「仕事」も、そして「年齢」さえも忘れ、黒と白の鍵盤を激しく擦る、一人のパフォーマーでしかなっかった。
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竹之内の人生はベースと結婚したようなものだ。 もう30年以上もベースを抱いている。 友人達は親しみと敬意を込めて彼を「ベースマン」と呼ぶ。 学生時代からベーシストとしてのテクニックを磨いて来た。 そして、今ではプロとして活動する弟子さえいる。 自身も、音楽とは別に仕事をもつアマチュアミュージシャンでありながら、マレーシア駐在から帰任後も、日本でセミプロのような活動をしている。 あまり感情を表に出さない男だが、演奏スタイルは、控えめと言うよりは「派手好み」だ。 本人もスラップ(チョッパー)こそ自分の見せ所と自覚し、事実、そのように演奏してきた。 そういう意味でも、ベースマン竹之内にとって、黒人音楽とはファンクやR&Bであり、ブルースは、その音楽的単調さから、あまり興味を持てるジャンルではなかった。 KLのアマチュアミュージシャン仲間に頼まれて、ブルースバンドでベースを弾いていても「もう少し他のジャンルも演りたい」と、 他のバンドを掛け持ちしないことには、自身の音楽的欲求を満足させることは難しかった。 ともすれば単調になりかねない3コードの楽曲では「自分のテクニックを披露する場面が無い」とさえ思っていた。
そんな考え方を180度転換させられたのは、このメンバー達が揃ったときだった。
今まで、単体曲の集まりであったステージを、全体構成、曲間のつなぎ、トーク内容、テクニック披露と、ひとつのショーとして捉え、
お客様目線のライブに変えた。更に、3コード中心の枠は維持しつつ、場面によっては、原曲への忠誠さは忘れ、零れ落ちるような個人技の自由度を許す。
これらは、大袈裟だが、ある意味「アマチュアらしいアマチュア」から「プロっぽいアマチュア」への「改革」であった。
ここで必要とされるのは、各メンバーの「役割」に対する自覚であり、メンバー間の「信頼関係」である。
竹之内は初めて「このバンドの中で、こいつらを下支え出来るのは俺だけだ」と、派手なテクニックでない自分の「役割」に目覚め、且つ、それが心地よいとさえ思えるようになっていた。
本来の「ベース道」とは、こういうものではなかったのか、と。
須藤からの「再結成召集」は、正直とても嬉しかった。 先約(日本で演奏の予定があった)は義理を欠かぬよう整理し、そそくさとAirAsiaのチケットを買った。 「このライブは絶対外せない、なぜなら、このバンドは俺のベースで下支えしないと成り立たないからだ。」
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12年前は、いつもこうして、車を走らせながら歌の練習をしていた。 小笠原が、この「車中練習」を再会してから、もうひと月以上経つだろうか、自分でも昔の感覚が戻ってきていることが実感出来る。 明日からの旅を目前にして、今では、昔、自主作成した二枚組のアルバム全ての曲を、ほぼ完璧に再現出来るまでになっていた。 須藤からの「再結成召集」のあと、マレーシア法人出向時の元ボスから「現地法人のイベントがあるから、前工場長資格で招待してやる」との連絡を受けたとき、小笠原は、嬉しさよりも、一瞬「ヤバイな」と呟いていた。 いつかはまた人前で歌いたい、そんな日がきっと来るであろうが、それは「いつか」であって、小笠原の心の中では「今」ではなかったからだ。 あれから人生の四分の一も経過し、子供達も成長し、会社での地位も上がった分、その年齢なりに老けもした。 しかし「そのとき」が来たらば、必ず昔のように歌える筈だと、根拠はないが自信だけは持っていたのだ。 ただ「そのとき」が突然具体的にカレンダーに記されると、その自信に根拠がないことを直視せざるを得ない状況になっていた。 その不安を振り払うために、毎日こうして車の中で大きな声を出してきたのだ。
小笠原自身は、KLでひょんなことからバンドに参加するまでは、本格的な音楽活動などしたことはなかった。 なので、最初はアマチュアらしく、おっかなびっくり人前で歌うことが精一杯であった。 しかし、それなりにデキるメンバーが揃ってくると、自信や余裕は無いにしても、歌う楽しさを感じられるようになっていた。 そしてある時、いや、正確に言うと9人のメンバーが揃った最初のライブの時だ、ステージの上、突然、自分の中で何かが弾け、 体が自然に動き出し、魂を込めた歌をシャウトしていた。「シンガー小笠原」誕生の瞬間だった。 そのステージ以降、周りの評価や客の反応が一変したのは言うまでもない。 ステージを支配する喜びを知ってしまった小笠原は、以降、バンドの「顔」になり、ライブパフォーマンスの要として、バンドを引っ張った。 もちろん、小笠原自信は「俺は、あくまで役割としてのフロントを演じているだけや、バックの凄腕達が居るからこそ、前で遊んでられる。 強大な軍事力をバックに交渉を進める、どこかの国のエライさんみたいなもんや」と、その存在感を鼻にかけない。 だが、そんな活動も長くは続けられなかった。海外駐在員の宿命とも言える、日本への帰任命令が出てしまったからだ。 通常、アマチュアミュージシャンは、どこに居たとしても、仲間を探しバンドを結成して活動する努力を惜しまぬものだ。 日本帰任後の小笠原が、それをしなかったのは、ある程度の「やりきった感」と同時に、マレーシアでの活動以上のものが出来るとは思えない「喪失感」からであった。
長いブランクで、多少の不安感は残るが、あとは、現地へ乗り込み、チャレンジするのみ。 自身が「戦闘服」と称するお決まりのステージ衣装も新調したし、セットリストも何度も確認した。 ポケットのマレーシア行きのチケットを手で撫でながら、明日からの旅を前に、 長い間忘れていたこの子供のような高揚感を、再び感じることが出来る自分がなぜか愛おしかった。
次回へとつづく。
(№88. 短篇音楽小説4『One Night Stand』(1) おわり)