№ 83. ライブ・ライブ・ライブ(3)


最近(2013/10)、個人的にとてもショッキングなことがあった。 大好きで毎週やっているバンドの練習を半分すっぽかしてしまったのだ。 理由らしきものはある。これまでは、毎週日曜の夕方が練習時間帯だったのだが、今月からは土曜日に変わったのだ。 ただ、その曜日変更を、自ら再確認メールを出して徹底したのにもかかわらず、それを忘れてしまったのだ。 その土曜日は、朝から妻に「今日は、なんも予定がないのでノンビリだ」などと言い、自宅近くのパブでやっていた映像芸術家のトークショーなどに参加して、練習開始の筈の時刻に、ご丁寧に質問などしていたのだ。 トークショーが終わり、「何時かな?」とスマホを見ると「今日、練習だけど大丈夫ですか?」とメンバーからのローマ字のSMSが20分前に入っていた。 時間厳守の私は、いつもなら10分前には確実にスタジオに着いているので、約束の時間を過ぎても来ないことを不思議に思ったメンバーが連絡してきたのだ。 この時点で27分の遅刻、結果的には50分遅刻で練習を開始出来たのだが、私の感性で言えばこれはもう完全なる「すっぽかし」だ。 これでは昔観た映画「明日への記憶」で若年性アルツハイマー病になっていく渡辺謙と同じではないかと、その日は滅入るばかり(因みに私、渡辺謙と同い年)。 そんな最近のことも忘れてしまうのであれば、数十年前の記憶をたよりにコラムを書くなど、かなりヤバイ。。。

実は、その「事件」の二週間ほど前に、バンド仲間の若手ギタリストから「あの音楽遍歴の話、更新しないんですか?」と、予想外のツッコミを受けていた。 どこまで書いたか忘れてしまったので、前話までを読み返し、なかなか正直に書いているので、自分でも驚いたり、苦笑したりしてしいたが、 既に忘れかけていたような話もあるので、こういうのは自分の補助記憶装置としても大切なことだな、などと再認識したばかりだった。 そんなことが重なったこともあり、前回(No.75)からかなり長〜い間が開いてしまったが、「早いうちに書いておかねば」と思った次第である。 まあ、また、ダラダラと長期間放置となる可能性は大いにアリだが、とりあえず、私の音楽遍歴エッセイ再開としよう。


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[背伸びして聴いていたブラックミュージック]
セミプロの人達とバンドをやることになった頃は、実に色々な音楽を聴いていた。 いや、聴いていた、と云うよりは、蘊蓄を垂れたいがために、無理矢理色々聴こうとしていた、と言ったほうが正しいかも知れない。 全く自信はなかったが、心の中では「プロミュージシャンになれたらいいな」などと密かに思っていたので、 その為の基礎つくりといったマジメな意味合いも勿論含まれていた。

同世代の自称音楽通達のお決まりのコースかも知れないが、ハードロック後は、当時[Crossover]などと呼んでいた[Fusion Music]から [Soul Music]、[R&B]、[Reggae]などに手を出したあと、[Hard bop]、[Free]などの[Jazz]へ向かい、 その100年の歴史をサラリと覗き見して、そしてゴツゴツとした[Blues]へ辿りついた。 一方、若気の至り系[Punk Rock]、[New Wave]から、ちょっと知的な[Ambient music(環境音楽)]などにも憧れて、 深く理解しないまま[Baroque]などの広義の[Classical Music]も聴き齧る。 こうなりゃ、小田実ではないが、何でも聴いてやろうと、[Tango]や[Folclore]などの民族系のレコードなどを無理して買ってみた時期もあった。 今思えば、十代後半から二十代前半のこの時期が、人生でイチバン音楽を真剣に聴いていた時期だと言える。 そんななかでも、[Blues]を起源とし、幅広いジャンルの音楽に影響を与え続けている黒人音楽に関しては 「絶対避けては通れぬ」と、子供心に真剣に思っていたのは確かだ。


本格派の黒人音楽は、70年代前半、それまであまり日本では流行っているとは言えなかった気がする(自分が未だ子供で知らなかっただけかも知れないが)。 が、しかし[The Commodores]の[Machine Gun]あたりから、怒涛のようにラジオで流されるようになり、 アメリカのTV番組[Soul Train]の日本でのヒットもあり、瞬く間に日本の音楽産業に「これは商売になる」と、定着してしまった印象だ。 当然、音楽を演奏する者たちへの影響も大きく、一部の人達の間では、陸上100m決勝のトラックように、“黒人にあらずんば・・・にあらず”的な、 所謂“黒人コンプレックス”を抱いたひとも多かった。 顔を靴墨で塗り[doo-wop]を歌う[シャネルズ]や、ルックスをソウルシンガー風にした[バブルガム・ブラザーズ]、そして、ちょっと若いが 実力でもホンモノと勝負可能な[久保田利伸]などは、そういった世代のひと達だ。 その頃から現在までに生で観た[Jazz]や[Soul]系のアーチストを覚えている限り列挙してみよう。

[Earth, Wind & Fire],[Brothers Johnson], [Al Green], [B. B. King], [The Commodores], [Art Blakey & the Jazz Messengers], [The Brecker Brothers],[Weather Report], [Miles Davis], [Gil Evans], [Ron Carter], [Tito Puente], [Mark Egan], [The 24th Street Band], [Tower of Power], [David Sanborn], [The Crusaders], [David T. Walker], 等々・・・。

この中では、Jazz Bassの大御所[Ron Carter]と、ラテンの大御所 [Tito Puente]はニューヨークのライブハウスで勇気を出して声をかけてみたら、ちゃんと返事をしてくれたので印象深い。

私自身は、最近はあまり聴かなくなってしまったが、以前に、シンガポールから久々に里帰りしてきたJazz/Fusion系ベーシストの息子(1986年生まれ)が、 私のCD棚から、昔は見向きもしなかった[Johnnie Taylor]、[Otis Clay]、[Wilson Pickett]、[Otis Redding]などを引っ張り出してきて、 「最近渋さが分かってきた!」と言って聴いていた。 「俺なんか、17~18才の頃から、こんなのを聴いていたんだぞ!」と自慢しつつ、古くなっても良いものは良いものとして認識されて行くことと、 好きな音楽の話題で息子と一緒に酒を飲めるなんてことは、「かなり幸せなことだ」と、ちょっとコソバユイ気持ちになったものだ。

黒人音楽といえば、やはり「歌もの」というイメージもあるが、ギタリストも味のあるギターを弾く人達が多い。 私の同世代がロックギターに目覚め、影響を受けたギターヒーロー達(クラプトン、ベック、リッチー、ペイジなど)は、当時、雑誌のインタビューなどを読むと、 一応に「B. B. Kingに影響を受けた」と言っていた気がする。 [B. B. King]といえばモダンブルース(黒人音楽)の巨人で、私が生まれる前から、今も活躍している超大御所である。 今となっては、私自身も、当然B.B.の直接的・間接的影響下に入るが、若かりし頃の私は、別の意味で、最初に買ったB.B. のレコードに衝撃を受けた。 凄腕のギターヒーロー達が尊敬する巨人なので、もの凄いテクニックで圧倒されることを期待して、名盤と呼ばれている[The Jungle]というアルバム(LP)を買った筈だ。 ジャケットの田舎臭さが気になったが、期待に胸を膨らませて、レコードに針を落とすと、聴こえてきたのはチャラチャラのギター音と、唸り声だけ(当時はそう聴こえた)。 オマケに最初から最後まで全部同じ曲なんじゃないかと疑ってしまうような曲ばかり。 次に買った[John Lee Hooker]の名盤の第一印象などは、正直「これはナニか悪い冗談なのではないか」と思ったほどだ。 表面的には、知ったかぶりして繕っていたが、「これがブルースの名盤だというなら、ブルースってなにさ。。。」と、内心かなりのショックであったことは確かだ。 どん欲に色んな音楽を聴き、口ではエラそうなことを言ってても、なんにも分からん子供だったのだ。(苦笑)


[再びバンド、そしてギター]
まだ十代だったか、既に成人していたかは記憶が薄いが、セミプロの先輩達に誘われたR&Bバンドの中途半端にやっていた時期だと思う。 パンクも全盛だったが、[Edward Van Halen]とかが出てきて、ライトハンド奏法でバリバリ売り出しはじめた頃で、彼こそが[Jimi Hendrix]以来のギター奏法革命だと感じていた時期だ。 ただ、個人的には、ハードに弾きまくるギタリストに少々飽きて、その頃流行っていたフュージョンバンド[Stuff]の[Cornell Dupree]や[Eric Gale]の歌心のある演奏を私は真似ていた。 ある晩、どんなキッカケか忘れてしまったが、山岸君という地元の同世代では有名なアマチュアギタリストの家に酔っ払って泊めて貰ったことがあった。 普段はそこまで親しい付き合いをしていたワケではないが、何故か彼の家に行き話をしていたとき、「前川君さ、今の演奏スタイル、本当に好きでやってるの?」とやんわりと批判されたことを未だに憶えている。 その頃は、どんなものが「自分の個性」なのかなんて分かるワケもなく、所謂「トレンド」を追っていただけなので、グサリと心臓をやられた気がして、大した考えも無く、ただ尖った答えを返した筈だ。 やはり、チャラチャラした「偽物」は見抜かれる。 確かに当時の音楽仲間達は、一部の人を除いて「本気」の人は居なかった。 そんな身内のぬるま湯サークル的馴れ合い関係に嫌気がさしつつあったのも事実だ。 根性入れてギター弾いていた山岸君の一言は、今思えば、その後、フェイドアウトするようにバンド活動から遠ざかってしまった遠因であることは間違いない。 ところで、その山岸君だが、最近発見したホームページの「1976年福生から活動開始」の経歴から見て、あの[スターリン]や[ファントムギフト]でギターを弾いていた[ナポレオン山岸]さんではないかと思っている。 同い年の筈なので、年齢的には、もう相当なオッサンだが、YouTubeなどで観ると、あの万人には理解されない(失礼!)であろう「混沌さ」は当時と同じなので、これが本当の「個性」ってやつなのかも知れない。

この頃、セミプロの先輩達に教えてもらい、今でも憶えていて、且つ、役立っていることがある。 それは「演奏中は歌を聴け」と「自分がリードをとるときはハッキリと弾け」の二つだ。 裏方にまわるときは主役を盛り上げるために働き、自分が主役になったら遠慮せず堂々と主張せよ、要は「役割によってメリハリをつけろ」ということだ。 この「教え」は、仕事でも、親父草野球のようなスポーツでも、組織で何かを成し遂げるような場合にはとても有効であった。 脇役が目立っていてもイケナイし、主役がイジイジしていても見苦しい、バンド演奏も組織運営も、それぞれの役回りとバランスが肝心なのだ。 どこの店とは敢えて書かぬが、上から目線のジャズ喫茶の偏屈オヤジや、ヴィンテージギター屋のオタク店長などは、音楽産業に身を置いてはいても、こういうことを教えてくれる先輩が居るバンド経験はなかったのかも知れない。


[子供とJ-Pop]
父が総合電機メーカーを脱サラして起した会社が傾きかけて、なし崩し的に手伝いだしたのが二十代前半。 結婚して、24歳で長女が生まれ、ダラダラした生活から一転、人並みに忙しくなってしまい、自然と音楽に対する姿勢も変化していった。 そのとき、そのときで色々と聴いてはいた筈だが、家族が出来た80年代中頃から、マレーシアに移住する90年代末まで、特定のジャンルの音楽に熱中していたという記憶はあまりない。 ただ、長女のブログなどを見ると、けっこう音楽好きの父親全開だったようだ。 小さい長女を自転車のチャイルドシートに乗せてブラブラ近所をサイクリングしてたら、中野サンプラザの裏口で[渡辺美里]のツアーバス(センチメンタル カンガルーの頃)が停まっていたので、 衝動的に長女を連れたまま観に行ってしまったこともあった。 長男には、未だ小さかった頃、誕生日にフェンダーのミニストラトを買って来たり、小学生高学年になったら「B'z聴け」とベストアルバムを買い与えたりしていた。 そんな環境なので、末娘も自然とPopsやRockを聴いて育っていた。 古い家族写真を見ると、子供は代々必ずプラスチックのオモチャギター等で演奏しているポーズを撮らされているのが笑える。 長男などは、コタツをステージ代わりにして、よくコンサートの真似事をしていたが、20年後にはホンモノのステージでおカネをもらって演奏しているのだから、人生って面白いもんだ。


次回は、マレーシアに移住して来た後のことを書こうと思う。


(№ 83. ライブ・ライブ・ライブ(3) おわり)


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