これから書くのは、2009年夏に、マレーシアの我CSL社で受け入れた、求職者海外インターンシップ生の中の、ひとりの男性のお話である。 もちろん、本人の承諾のうえで書いているが、タイトルがタイトルだけに、あえて実名は伏せておくことにする。 仮に、“Y君(独身の32歳)”とでもしておこう。 この実話は、彼(Y君)に驚かされ、笑わされ、ムカつき、翻弄され、そして、ときに癒され・・・。 雇用とは、働くということは、一期一会とは、仲間とは、そして、より良い人生とはなんなのか、等々、 日本政府の、雇用危機対策事業へ協力するなかで、諸々の場面で、様々なことを考えさせられた、貴重な一夏の体験談なのだ。
そもそも、“求職者海外インターンシップ”とは何ぞや?から説明しないといけない。 通常、インターンシップと聞くと、学生、または、学校を卒業したばかりの若い人達が、実社会を経験するために、企業や公共の組織などに、一時的に入るプログラムを思い浮かべるであろう。 我CSL社でも、2008年は大学生の男女2名を3週間、政府の外郭団体(仮に「J協会」とする)から受け入れて、 基礎的なプログラミングやローカル社員とのコミュニケーションを学んでもらい、双方とても充実した時間を過ごした経験がある。 今年の春には、その2名から『マレーシアのお父さん、就職内定もらいましたよ!』と、嬉しい知らせが来た。 就職先も、日本を代表する企業と申し分なく、わが子の事のように、喜んだものだ。 自社の将来の為にも、そういう若い人達と、良い関係を毎年持ちたいと思い、今年も、進んでインターンシップ生を受入るつもりでいた。 が、しかし、今年の「J協会」が行うインターンシップ・プログラムは、折からの経済危機もあり、ちょっと今までとは異なる様相を呈していたのだった。
『求職者を、インターンとして受け入れてください!』 と、「J協会」よりの“お知らせ”が来たとき、私は、経済危機で不運にも派遣切りに遭ってしまった、若いIT技術者達のことを、即座に思い浮かべた。 受注激減などが理由で、会社都合により解雇され、職を失った若いIT技術者を、海外の中小IT会社へ送り込み、 海外ならではの職業訓練を実施し、且つ、出来れば、そのまま関連企業への就職を斡旋する。 つまりは、未曾有の大不況で、再就職活動に支障をきたしている若者と、我々のように、普段は若い人達には見向きもされないような、名も無い在外中小企業とのマッチングだ。 そう、これこそ、慢性人材不足の我々にとっては、願っても無い、千載一遇のチャンス到来だと興奮したものだ。 まして、今までのインターシップ受入は、有意義だが、金銭的には持ち出しが多かった。 が、今回は、受入諸費(研修実施費や管理費)として、かなりの金額が頂けるとのことだった。 国から、おカネを頂きながら、60日間も人材を吟味でき、且つ、採用まで繋げられる。 「J協会」の“求職者海外インターンシップ”とは、そのような、我社にとっては夢のスキームだと思われた。
早速、「J協会」への申請書を提出、2名のインターンの受入を表明し、ネット公募によるインターンシップ生の応募を待った。 暫くして、送られて来たインターン候補者の経歴書を見て、私は、自分の考えや、雇用情勢の見方が甘かったと認識せざるを得なかった。 そこには、私の思い描いていた、会社都合で失職した若いIT技術者(つまり20歳代前半)はなく、平均年齢40歳前後の、IT企業で言えば、ベテランの域に達しているべき年代の人達だったのだ。 そんな中で、最年少(当時31歳)であったY君は、初歩的ではあるが、英語やIT関連の資格を持ち、履歴書の写真も、まあまあ普通であったので、一も二も無く最優先で彼をインターン派遣候補として選択した。 その後、「J協会」から、『応募者を極力多く派遣させたいので、都合3名受け入れてくれ!』との依頼がった。 ウチとしては、近くにインターン専用の小さな事務所を、この期間だけ借りる算段をしていたので、2名も3名も同じこと。 人数が多い方が、頂けるおカネも多いので、Y君に加えて、求職中のEさん(45)と、Mさん(40)の2名を、2009年8月10日から60日間、受け入れることに決めたのだった。
2009年7月21日の火曜日。 その日は、我社が、派遣予定者3名へ、現地事情などを説明をする“企業オリエンテーション”の開催予定日であった。 前日(海の日)の朝に、KLから東京へ到着していた私は、朝から、午後の2時のオリエンテーションのために、 東京の事務所で、4つの別件アポイントメント等を、精力的にこなしていた。 午後2時前、遅い昼食を、簡単にコンビニのオニギリで済まし、インターン達を待っていると、Y君が予定の15分くらい前に事務所に到着した。 Y君と初めての対面だ。今回の心労をはじめ諸問題、全ては、このときから始まったと言っても過言ではないだろう。 履歴書の写真からの印象は、中肉中背の温厚そうな“普通の人”だったが、最初に見た瞬間、再び、(中堅技術者を採用できるかも知れないと思った)自分の考えが甘かったことに気付かされた。 一見して、数週間は風呂に入っていないと分かる顔色。 放たれる、汗と尿とカビが混ざったようなホームレス臭。 優にひと月は洗濯してないだろうと思われる、薄汚れた黄色のシャツ。 ベルトがないのか、ズレ落ちているジーンズ。 履いている運動靴にいたっては、真ん中から二つに割れていて、思わず“見てはイケナイものを見てしまった”と、目を背けてしまったほどだ。 更に絶望的な気分にさせられたのは、腕に巻いている得体の知れない紙の腕輪。 腕時計がないから、時計の代わりに紙で作ってきたのか、なにかの宗教的な装飾物なのか、初対面ではジロジロと注視も出来ず、まったく判別不能であった。 外見も“申し分なく”異常であったが、態度も、突然関係ない質問が飛び出す等々、一般の常識的な範疇からは、かなりズレていた。
このとき、私は心の中で、『ネットカフェ難民や、準ホームレスのような若者が、とうとう自分の身の周りにも出現してしまった!どうすれゃイイんだ!』と、途方に暮れていた。 ショックで、通常の思考回路が飛ばされてつつも、彼のような人間は、けっしてマレーシアのCSL社では受け入れて貰えないだろうと思い、且つ、 飛行機の中で、彼の隣に座って7時間も堪える人のことを思うと、頭がクラクラした。 しかし、反面では、彼のような境遇の人も、ある意味、衣食住が保証される今回のインターンシップ生活に入れば、きっと小奇麗で清潔な人間に戻るだろう、とも考えた。 きっと、今は、諸々の事情があって、仕事にあぶれたので、清潔にしたくても金銭的に無理な状態なのだ。 だって、普通に考えれば、現役ホームレスの人達だって、内心は、清潔にしたいと思っていると考えたいではないか。
Y君の衝撃のせいで、企業オリエンテーションでは、何を話したのか記憶が薄いが、 Y君が『僕は、食べることが大好きなんで、マレーシアンフードを沢山トライしたい』と、言っていたことと、 終了後、即、事務所の換気をして、「J協会」へ『派遣者は、身なりを清潔に保つべく指導をしてください!!』と、メールを打った記憶は残っている。 「J協会」も、私の依頼兼抗議メールに即反応してくれて、『派遣直前に行う、協会での打ち合わせの際に、徹底します』と、約束してくれた。 数日後の、その打ち合わせ当日の夜、彼の様子はどうだったか「J協会」へ問い合わせると、『相変らずでした、色々指導はしましたが、個人的に言うワケにもイカズ・・・』との回答だった。 それをうけて、私は、放っておいたら、彼はホームレス状態のままでマレーシアに来てしまう、と、不安がピークになり、もう、彼の心を傷つけることになっても仕方が無い、と、 意を決して、派遣予定者3名に対して、下記の注意喚起メールを送った。(もちろん、Eさん、Mさんには、後続メールで、これはY君の事だと説明したが)
~~~ メール内容 ~~~
『当プログラムを成功させるために、ひとつだけ、注意事項を、あえてお送り致します。 単刀直入に言いますが、インターンシップ派遣期間中は(移動を含む)、スーツを着用する必要もなく、 ジーンズにTシャツ、スニーカーでもけっこうですが、清楚、清潔だけは充分に気をつかってください。 マレーシア現地の社員達は、ほぼ皆若く、上記のようなことに関しては、特に敏感です。 彼らと、打ち解けてこの二ヶ月間を価値有るものにする為にも、社会人として(いや、日本人として)恥ずかしくない、身なりで対応して頂くことを、お願い致します。 不適切な場合は、現地では、私の判断に従って頂きますよ。』
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この警告ともいえるメールに対して、Y君からは、あっさりと“了解しました!”的な返信が来た。 ジーンズはやめ、襟付きのシャツを着用する、また、ホテルには、シャワーもランドリーもあるので、身嗜みには充分注意する、と書いてあった。 私は、『これでやっと趣旨が通じた。やれやれ、やはり言い難いこともズバっと言うことも必要なんだよな。俺って、チョイ厳しくて、イイ感じの経営者だなぁ』 などと、自惚れていたら、10日後にマレーシアの空港で、再々度、自分の考えが甘かったことに気付かされるのであった。
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2009年8月10日の月曜日。 私は、クアラ・ルンプール国際空港(KLIA)で、二日前にライブで演奏したギターリフを口ずさみながら、16:40のMH089で到着する3名を待っていた。 このとき、Y君に関しては、ちょっと不安はあったけれど、まさか、あんな警告メールをもらっておいて、この期に及んでホームレス状態で来ることはないだろうと、楽観的に構えていた。 なぜなら、「J協会」からY君へは、渡航に要する費用の入金もあったようなので、既に[カネ無し]→[不潔]の一般的な方程式は、成り立たなくなっていたためである。
『3人分の荷物は、どの程度の車を手配すれば良いのか?』とタクシー手配のカウンターに訊くと、 『到着後、荷物の量をチェックするから、見せに来てくれ』と言われた。 タクシーの料金表などをチェックしながら、到着ロビーをウロチョロしていると、MH089便のタグをつけた旅行者がゾロゾロと出口に溢れ出て来た。 数分後、カートを押しながら、仲良く並んで歩いてくる日本人男性3名を遠くに発見した。 とりあえず、Eさん、Mさんは無視して、遠目でY君の身なりの確認に集中だ。 靴は新しいスニーカーを調達したようで、割れてはいなかったが、なにやらムサ苦しいカーキ色の上着を羽織っている(ここは熱帯だぞ!)。 勇気を出して、笑顔をつくり、3人に近寄って行き、『Welcome to Malaysia !!』と、一人ずつ握手をした瞬間、絶望的な気分になった。 この臭気、この身なり・・・、残念ながら、Y君のホームレス状態は、“変化無し”だったのだ。 JAPANESE HOMELESS、ついにクアラ・ルンプールに現る。。。
失意のなか、とりあえず、ホテルまでのタクシーの手配のため、先ほどのカウンターに、皆の荷物の数を見せようとして、 また、見てはイケナイものを見てしまった。 Eさん、Mさんの二人は、当然のように、通常の旅行用ケースなのだが、Y君の荷物は、薄汚い買い物用エコバッグと、エアパッキン(プチプチ空気入りのビニール)に包まれた物体が数個。 実を言うと、この漬物石大の物体が、いったい幾つあったのか、正視に堪えなかったので、私は知らない。 おそらく、旅行用のバッグが買えなかったので、荷物を有り合せの袋に入れて持ってきて、空港でチェックインの際、 『そのままでは困る!』と、プチプチビニールで厳重パックされてしまったのだろう。 朝、成田空港まで向かう途中で雨に降られて、手持ちのバッグが裂けてしまったと、イイワケをしていたが、私は、雨で裂ける旅行カバンがあれば見てみたいものだ。 成田空港チェックインカウンターのオネエさん達の、困惑し引き攣る顔が目に浮かぶ。
チャーターした旧式大型ベンツのタクシーに、旅行用ケースと、“漬物石大の物体”数個を詰め込んで、宿泊先のホテルに向かう。 今回の海外インターンシップは、日当および宿泊料として、「J協会」から1人1日10,000円も支給されるので、 そのうちから5,500円をホテル代に充ててもらい、事務所近く(徒歩圏内)の高級ホテルを宿としたのである (因みに、マレーシアでは、食費もホテル代も安いので、10,000円/日という支給は、かなりの余裕だ)。 タクシーの中、Eさん、Mさんと世間話をするも、ホームレス臭が車中に充満して気分が悪い。 あれだけ言っておいたのに、そして、理解したと返事が来ていたのにもかかわらず、これはいったい何なのだ? 息をする度に、不愉快さと怒りが増してくるが、初日から派遣先の代表が、仏頂面をしているのはマズイので、 “ホテルに到着すれば、シャワーを浴びてサッパリするに違いない!”と、ここはひとつ、ポジティブに考えようと頭を切り替えることにした。 だって、どう考えたって、困窮していた今まではともかく、清潔になる環境が整う今、早くマトモになりたいと願うと、思いたいではないか。
空港から約1時間、旧式ベンツはPJ(Petaling Jaya)地区のEastin Hotelへ到着した。 車を降りて見ていると、トランクから荷物を出そうとしたホテルスタッフが、一瞬固まるのを、私は見逃さなかった。 プチプチビニールに包まれた、複数の“漬物石大の物体”を見て、彼が最初に発した言葉は、「Welcome」でも「Good Evening」でもなく、「トローリー(台車)が必要だ!」だった。 チェックインのときも、受付のインド系女性に嫌がられた。 Y君がビジターカードに、住所(あるのか?)、氏名等を記入している間、ずっと離れたポジションで不機嫌な顔をして、目は、とてもお客様を見る目ではなかった。
チェックインの後、即、食事に出る予定であったが、私は、彼らに『ちょっと、ゆっくりしてから外に出ましょう』と提案した。 表面的には“朝からの長旅で疲れているでしょうから、シャワーでも浴びてサッパリしたあと、ビールでも飲みましょう”ということだが、 本心は、『Y君!、もう、シャワーを使える状態なので、今まで溜まった垢を落として、清潔になってから、食事に来てくれよ!』と、どこの神様でも良いので、祈りたい気持ちだった。
残念ながら、マレーシアでは、神様に祈りは通じなかった。 数十分後、チェックイン前と同じスタイルで、不気味に“ニカッ”と笑いながら、左肩を落として、斜めに立っているY君をロビーで見たとき、繊細な50歳の心は折れそうになった。 もう、こうなったら今夜は捨てだ。『きっと、今夜、徹底的に今までの垢を落として、明日の朝はスッキリしてくるだろう』と、自分で自分を誤魔化すしか道はなかった。
ホテルでタクシーを調達して、我々一行は、KL初心者定番のジャラン・アローへ向かった。 来馬初日のゲストを招待することが多い、偽ミッキーの看板の[黄亜華小食店]へ入る。 毎度、お馴染みの料理を振る舞いながら、これからのマレーシアでの生活などについて話合った。 Y君は、何故か、飲み食いの最中でも、ムサ苦しいカーキ色の上着を脱がず、汗びっしょりになりながら、一心不乱に食べていた。 食べる姿を見て、店員達が、“奴はホントに日本人なのか?”と訝っているのが恥かしい。 まあ、ここは上品なレストランでもないが、日本人客も多いので、奥に向かって座らせたのは正解であった。
タラフク飲み食いして、マレーシア初ディナーを満喫してもらった後、夜のブキッ・ビンタン通りに出て、私の自宅と帰る方向の違う彼らのためにタクシーを拾った。 誰も未だ両替していないというので、タクシー代を渡し、ドライバーにホテル名を告げ、ドアを閉めたとき、突然気が抜けたのか、黒ビールのアルコールが脳ミソに回りだした。 明日からの2ヶ月間を考えると、極端に気が重い。 今のままのY君を、ローカル社員と一緒に作業させることは絶対に出来ないし、あの不潔な状態では、一緒の部屋で作業する予定の、EさんとMさんにも気の毒だ。 『今夜こそ、いや、明日の朝でもいい、とにかくホテルのシャワーを使って、マトモな状態になってくれ!!』と、今度は、仏様に祈るような気持ちで帰途についた。
後に履歴書を再チェックしているときに気付いたが、この日は、Y君の32回目のバースディだった。
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(№62. ホームレス・インターンシップ生〔前編〕 おわり)