WHOが警戒レベルフェーズ6を出すなか、家族で3泊のラオス旅行に行ってきた。 新型インフルエンザ感染のリスクを冒してまで行く必要があるのかと、問われれば、即座に「行く必要ナシ!」と、云わざるを得ない旅である。 実は、今回の旅は、2008年8月の末に、当時シンガポールの旅行社で働いていた長女(別名Tour Complainerの由衣:サービスが悪かったり、相手が論理的でない場合、クレームし倒す強気女)から 「AirAsiaのプロモーションで、2009年6月のビエンチャン行き飛行機が無料だから、パパの50歳記念ってことで、家族5人とYwenna(ピアニスト、長男の彼女で家族同様)でラオス旅行しようよ!」 と云われて、「そんな先の予定は分からないが、とりあえずOK!」と、軽く返事をして、予約させておいたチケットが発端だった。 しかし、その後、世界は大きく変わってしまった。 燻っていた金融危機は、リーマン破綻をトリガーとして全世界の泡を破裂させ、 心配されていた新型インフルのパンデミックは、鳥ではなく、ノーマークであった豚という変化球で、交通網の発達で狭くなった世界を震撼させた。 旅行を予約してから、出発するまでの間に、大きな出来事が頻発したため、手帳の6月予定表ページを開くまで、私の頭の中からは、すっかりラオス旅行のことは消えていた。 おまけに、毎日、毎日、「受注確保!」だの、「もっと売上を上げろ!」などと、ビジネス界の底辺でもがいていたため、旅行の日程が迫ってきても、 “ラオスってどんなところだろう?”とか、“観光スポットやラオス料理の調査をしないと!”などとはつゆにも思わなかった。 なので、出発当日までに得た情報といえば、KLのビジネス関係(兼飲み友達)で、唯一ラオス旅行の経験のあるS社のIさんから聞いた 『衛生面では要注意!』、『ビアラオ(BEERLAO:現地のビール)は旨い』、『メコンの夕陽は風情がある』の、たった3つだけであった。 まあ、今回は、観光というよりは、久々に家族全員で行動し、飲み、食べ、楽しく過ごしましょう、というのが趣旨なので、観光地としての期待度は限りなくゼロに近い。 個人的には、日本の祝祭日も、マレーシアのパブリックホリデーも、要領が悪く休めないことが多いので、久しぶりに日常を離れて、メコン川のほとりでビールでも飲みつつ、読書でもして、ゆっくりしたいといったところなのだ。
【2009年6月20日(土)】
飛行機の出発時刻は、早朝(AM8:05発)であったが、“タダ券”ということもあり文句は言えない。
2時間前までに空港へ行くという、国際線のルールで逆算すると、空港までの車の時間もいれると、起床はなんと午前4:00だった。
前週の土曜に、KLのアマチュアミュージシャン達と、趣味の内輪ライブを終えたばかりで、心身ともに、かなり疲れていたこともあり、ゆっくり休みたい土曜日なのでチト辛い。
子供の頃、遠足の朝には、妙に早起きしてしまっていた自分を懐かしく思いながら、前夜のうちに準備しておいた荷物に、気軽に読める本を5冊ほど詰め込み、
長女が予約しておいたタクシー(8人乗りのバン)を待った。
時間にルーズなマレーシアにしては、不気味なほど正確に、約束の午前5:00キッカリに、古いタイプのバンがコンドミニアムに到着した。
荷台にバッグ類を詰め込み、車は、夜明け前の空いた道路を、空港に向けて出発した。
道中、『今日、6月20日といえば、27年前('82)、ロックの解らぬ家内(結婚前)と2人で、野音にモッズのデビュー1周年ライヴを観に行ったなぁ。
あのときは集中豪雨で、トラブル多発だったけど、今となってはトラブルも伝説だ。何が起こるか分からない楽しみは、ライブも旅も同じだからなぁ~』
などと、睡眠の足りない頭で考えながら、猛スピードで軋みながら走るバンの車窓から、夜明け前の景色を眺めていたら、空港(LCCT)に到着した。
このLCCTという国際便も発着する空港。
日本からの直行便の到着するKLIA(Kuala Lumpur International Airport)のターミナルとは、場所は近いが、質はかなり見劣りする。
なにせ、LCCTはLow Cost Carrier Terminalの略称で、訳すと、“格安航空会社が発着するターミナル”なのだ。
最初にこの空港名の意味を知ったときは、“そこまでストレートな名称つけて卑屈にならなくても・・・”と、思ったが、実際に、
この空港のメイン・プレーヤーである格安航空会社AirAsiaを利用し、チェックイン~搭乗~フライトと経験すると、“やはりLCCTという名前がピッタリ!”と実感できるのである。
空港に到着し、まず驚いたのは、早朝にもかかわらず人が多いことであった。 チェックイン・カウンターの前は長蛇の列で、売店のある通路まで列が無秩序に続いている。 この無秩序感だけで、日本人的には頭がクラクラするのだが、チェックイン・カウンター上部の行き先表示サインが、まったく出ていないのも絶望的だ。 食料の配給を待つ列に並んだ難民のような気分で、全てのフライトが書かれている看板の立つ、列の最後尾につく。 が、しかし、10分経っても、20分経っても、まったく進まない。 次々に空港へ到着した人が列に加わるが、チェックインを終えて列から離れる人の数が極端に少ないのはどういうことなのか。 日本の空港と比較して、けっして効率が良いとはいえないマレーシアの事情を考慮したとしても、これはあまりにも遅すぎる。 こんな状態が続いていたら、確実にフライトを逃してしまうと思い、列を離れカウンターに行って『いったい、ナニにこんなに時間かかってるんだ!?』 と、長女を真似て、思いっきりクレーム顔して、詰め寄ってみた。 カウンターの職員は、それどころではないようで、完全に無視されたが、最前列の客が、この事態にしては妙に落ち着いた表情で、『System downなのよ』と事情を教えてくれた。 人間、困難な状況も、その理由が分かると、大人しくなるもので、不満げに騒いでいる、情報の無い列の後ろの人達を尻目に、諦め顔で本を読んでいる白人やら、 しゃがみこんで、うたた寝をしている人達がいるのも頷ける。 こちらも商売柄、ここで騒いでみても、余計にチェックイン時間が遅くなるだけなのは重々承知しているので、渋々元の列に並びなおした。 ウチの子供達も、諦めて持参したサンドイッチを食べたり、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いたりして、ひたすら、システムの復旧を待った。 毎週Gigのあるベース奏者の息子は、「4日間も楽器をいじらないのは致命的だ」と、楽器持参で来ているので、ケースから出して練習したそうだった。 その間、偶然にも、ラオスの情報をくれたS社のIさん夫婦が、シンガポールへ行く為に、別の列に並んでいたので、記念写真を撮ったり、 『空港のシステムダウンでさえ許されちゃう国だから、某CBR社(コラム№58参照)の穴だらけパッケージソフトも売れるワケだよね』 などと、バカ話をして時間を潰していた。 しかし、結局システムは正常に立ち上がらないようで、乗客の照合から、預入荷物のタグシール発行まで、全て手作業の対応で、手続きは行われたのであった。 以前、成田でチェックイン中にシステムダウンに遭遇したときは、完全に業務ストップで、カウンターで暫く待たされた経験を思うと、 突然手作業に切り替えないとイケナイ状況で、よくもまあ、黙々と焦らず仕事が出来るもんだと、ある意味関心してしまった。 ひょっとしたら、システム・ダウンは日常茶飯事で、これはAirAsiaの職員にとっては“通常業務”の範疇なのかも知れない。
心配していた、息子のベース(楽器)機内持ち込みも、混乱に乗じて許され、搭乗口へ向かう。 チェックインに1時間40分を要したため、フライトがディレイすることは確実だと思いながらも、急ぎ足で向かった。 なぜなら、この空港、飛行機までの距離がやたらと長く、しかも、滑走路と同じ地面の歩道を延々と歩かないとイケナイのだ。 一応、歩道の切れ目とかでは、整備士と係員の中間のような服装をした人が、「ビエンチャン行きの機体はあっちだよ~」と、言いながら、 空港内を移動する車両と、歩行者が事故を起こさないように、誘導しているのだが、彼らの声が小さいことと、発音が日本人には聞き取り辛いので、 目的の飛行機の傍に到着するまでは、自分が搭乗する飛行機なのか不安でしょうがない。
昔懐かしい“タラップ”なる移動階段を登り、機内に入ったら、なんとシートは自由席なので、良い座席を確保するのには、敏捷な動きと、関西人的臨機応変さが必要となる (実際は、特定エリアの座席はネット予約可能なのだが、予約料が発生するので、予約する人があまり居ない状態)。 幸い、この日は空席が多いようで、我々6名は機体後部の座席を簡単に確保出来た。 通常、この後、真っ赤でタイトな制服に、とびっきり派手な化粧のスチュワーデスさん達が、財団法人日本野鳥の会認定(嘘)のカウンターを持って、 客席の頭数を数えて回り、“野鳥”の数が合えば『さあ出発!』となる。 余談だが、いつも、このAirAsiaを使う度に思うのだけど、この会社のスチュワーデスさん達の化粧の濃さは、会社の方針として指導しているとしか思えない。 はっきり言うと、ほぼ全員“ケバい”のだ。 そして、その“ケバさ”が、前シート背にあるボロボロの機内誌や、“飲み物機内販売”などの言葉と相まって、妙に格安感を醸し出していて、 『ああ、俺は安い旅をしているな~』と、チープな満足感を覚えてしまうのだ。 ついでに言うと、AirAsiaの各便は、目的地に着陸すると、即スチュワーデスさん達が、ササッと機内整備をして、 JR中央線快速が高尾駅で折り返してくるが如く、即Uターン便に変身して戻って来るのである。 ペナンに行ったときも、到着して空港ターミナルに入ると、既に出発する客が整列していて、私がトロトロ歩いていたら、搭乗が既にはじまっていた。
機内を見回すと6~7割ほどが埋まっていた。 『流石に、この時期マレーシアからラオスに旅行に行く人は少ないのだな』と、勝手に思ったが、なかなか出発しない。 40分ほど機内で待たされていたら、チェックインが遅れていた客がポロポロと集り出して出発までには、ほぼ満席となってしまった。 昨夜、長女がネットで調べたら『タダ(税のみ)でもらった航空券が、今日買うとRM800(約21,000円)になってる!』と、言っていたのも納得だ。 結局、飛行機は1時間遅れで出発した。 窮屈な機内で、インド人達は席を立ち仲間と談笑し、中国人達は時間を惜しんで飲み食いし、且つ、たまたま居合わせただけの同国人達と大声でエンドレスに話す。 白人の飛行士(副操縦士?)はコックピットから出てきて、紙コップのコーヒーを飲みながら、ケバいスチュワーデスさんに色目を使い、日本人は静かに読書か、寝るか。 世界の縮図を詰め込んで、飛行機は未知の国(自分にとって)ラオス人民民主共和国の首都ビエンチャンへと向かって北上するのであった。
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機体が着陸態勢をとり、何故か懐かしく感じる田舎の景色が見えてきたのは、出発から約2時間半経った頃だった。 着陸の前、乱気流で揺れて怖がる人もいたが、今年の3月23日の成田で起きた、FedEx80便の事故とほぼ同時刻に、JAL便にて経験した“ウインドシア”と比較すると、通常の揺れの範囲だった。 降立ったワットタイ国際空港(Wattay International Airport)には、乗って来た飛行機と、遠くにプロペラ式の中型機が1機のみ。 当然、入国する旅行者も僅かな数であるが、イミグレーションの入国審査が慎重で、預けた荷物を受け取るターンテーブルに到着したのは着陸から40分以上経っていた。 早々に自分の荷物を受け取り、目ざとく見つけた、税関の前に免税店に独り入り、目的のモノを探す。 「おおっ、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による一党独裁体制の国にも、ジョニーウォーカーの金ラベルがあったのか!!」と、嬉しくなる。 同じように喜んでいるインド人団体客に混ざって、ハーフボトルを12USDで買っていたら、ターンテーブルの方で家族が、息子と次女のバッグが出てきてないと困っていた。 以前、ハノイのノイバイ国際空港でも同じようなことがあったが、そのときは、荷物がターンテーブルから落ちていて、ほどなく発見できた。 今回も、どこかに落ちている筈だと思い、探したが出てこない。 こうなると旅行業に詳しい、というか、クレーム慣れしている長女の出番だ。 空港職員や、AirAsiaの駐在員を捉まえて、色々調べてもらったが、どうやら他にも荷物がなくなった客が居るらしい。 おそらく、あのチェックイン時の混乱で、別の便にでも載せてしまったのだろう。 ちょっと気の弱そうなラオスの空港職員に、“どうしてくれるの?”と、詰め寄る長女に、「問題はAirAsia社で、この人のせいじゃないよ。」 と、冷静な父親を演じていたら、AirAsiaの職員が来て、「荷物をロストした二人は、手続きをするので事務所に来てくれ」と言われた。 「まあ、急ぐ旅でもないから、色々トラブルも楽しもう」と、 二人以外は、空港ロビーで、当時の麻生首相(あっ、まだ辞めてないか?)が映っている、ラオス国営放送のTVを観ながら、待つことにした。 スッタモンダの挙句、一枚の紙切れ(証明書)だけもらって、二人がロビーに戻ってきたときは、時計の針は既に午後になっていた。 結果的に、息子と次女の荷物は、4日後の帰国便に乗る直前に受け取ったのだが、損をしたのは、着替えが無い二人の服をビエンチャンで買わされた私だけだったようだ。
このゴタゴタで気付いたが、ラオスの人は、マレーシア人やシンガポール人などと違い、ガイドブックに出ている通り、とても温厚で冷静のようだ。 一般的に、東南アジアを旅する日本人が受ける現地人の印象は、 “煩い”、“無神経”、“無遠慮”、“騙されそう”、等々、チャイナタウンの露店商みたいなキャラだと思うが、ラオス人は、ちょっと勝手が違うようだ。 空港からホテルへのタクシーに乗っても、ホテルにチェックインしても、その印象は同じであった。 初日からトラブル続きではあるが、何故かイライラしないのは、“急がぬ旅”という要素は大きいが、 この温厚で冷静なラオス人の内なるホスピタリティーに、自然と癒されているのかも知れない。
予約してあった「インター・シティー・ホテル」は、空港から中型のバンタクシーで15分ほど走ったメコン川沿いにあった。 以前、私が椎名誠の紀行文に影響されて、「メコン川が見たい!」と言っていたのを家内が覚えていて、ここを予約してくれたようだ。 一旦は、タクシーから見た外観で、「ああ、また、シンガポール旅行や、パンコール島旅行のように、宿代をケチって、自宅より心地よくないホテルに泊まるのか・・・」 と、落胆したが、中に入ると印象は180度好転した。 ロビーには、古美術や絵が飾ってあり、博物館か美術館のようで、全て古いが、どれをとっても趣味がいい。 アンティークに囲まれた窓際のテーブルで、白人が放心したような顔で、昼間から当地のビールを飲んでいる姿も、リラックスを求めて来た自分には嬉しい光景だ。 ロビーを外へ出ると、狭い道路ひとつ隔ててメコン川。 川岸には夕暮れ時になると屋台が出て、沈む夕陽を眺めながら、ローカルフード三昧も楽しめる。 部屋や各階のフロアも適度に枯れいて、欧米の文明社会に疲れた白人が、お忍びで数ヶ月間滞在し、小説でも書いたら似合いそうな趣きがある。 唯一、“上海フジ”なるメーカーのエレベータだけは、このエキゾチックな館には、不似合いであったが、 そんな仕事絡み目線を一時忘れられない無粋な自分が、もっと不似合いなのかもしれない。
KLと1時間の時差(タイ・ベトナムと同じ)を入れると、自宅を出発してから既に8時間、我々一同超空腹であった。 「とにかく何かを食べよう」と、ホテルのフロントでレストランのある地域を聞いて外に出る。 しかし、生憎、雨が降ってきそうだ。 あまり空腹のままウロウロもしたくないので、ホテル近くに「ボー・ぺ・ニャン」という、夜はディスコかパブになるような、ラオス料理を出す地上4階のオープンエアーの店に入った。 因みに、“ボー・ぺ・ニャン”とはラオス語で“問題無い!”という意味らしい (タイの“マイペンライ”、広東語の“モウマンタイ(無問題)”、インド人の口癖の“ノー・プロブレム”と、アジアには、このお気楽ワードが良く似合う)。 メコン川のよく見える席につき、まずは現地ビールのビアラオの大瓶を3本オーダーし、色々トラブルはあったが、無事にラオスに到着したことを祝し(要は何でもイイのだけど)乾杯した。 このビアラオ(BEERLAO)という現地生産のビール。 この後、旅の間ずっと飲み続けることになるのだが、独特の風味が当地の気候や料理にマッチして、ドンドン飲めてしまう。 個人的には、2年くらい前から黒ビール専門になってしまっていて、普通のビールはほとんど飲まないのだが、ビアラオだけは特別待遇にしても良い味だった。 一方のラオス料理だが、タイのトムヤムクンや、ベトナムのフォーのように、全国区の有名な料理は無いに等しく、タイ料理とベトナム料理(勿論中華も)の影響を強く受けたものが多いようだ。 メニューの“ラオ・フード”欄からテキトウにオーダーし、ビールで人心地ついて料理を待っていると、だんだん風が強くなってきた。 地上四階のオープンエアーの店なので、メコン側の上流より迫ってくるスコールが遠くに見える。 KLならば、風が吹き出すと、即スコールが来るのだが、ここは風が吹き始めてから、スコールが来るまでの時間がかなり長いようだ。 テレビの旅行番組ならば、ここで、暫しスコールによって増水した大河メコンの映像と、それに見入る家族一同を映し続けるところだろうが、 我々は、オーダーした料理が、吹き込む雨で濡れるので、店の中央のテーブルへ移動して、運ばれてくる“ラオ・フード”を片付けることに専念した。 あまりにも、飲み、食い、談笑に忙しく、スコールが既にやんでいるのに気付いたのは、大分あとになってからだった。
食事後、家内と娘ふたりは、元気に「街を散策する!」という。 今回の旅は、個人的には“予備知識なし”、“予定なし”、“急ぐ必要なし”のダラダラ旅行と決めていたので、「夕食は、PM8:00ロビー集合!」と宣言し、 皆を見送った後、シャワーを浴びて、空港の免税店で買った“ジョニ金”をチビリチビリやりながら、読書をしていたら、いつの間にか寝てしまった。
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お隣の「ボー・ぺ・ニャン」から流れてくる大音量のロックで、“至福の眠り”から目覚めると、外は暗かった。 時間を確認すると、まだ“今日”だった。 土曜の朝四時から活動していたので、一日がとても長い。 “ジョニ金”が少し頭に残っているが、頑張って夕食のためにロビーへ向かう。 外に出ると、メコン川沿いの商店街は、ブティック、土産物屋、レストラン、バー、屋台、コンビニ、と照明は暗いが、それなりに活気があった。 まずは、AirAsia便でロストした、息子と次女の着替えを、「ウォークマン・ビレッジ」という、当地としては比較的大きなブティックで買う。 ついでに私も、普段は服など滅多に自分では買わないが、この際なので、色々見てまわった。 けっこう気の利いた服も売っているのだが、現地通過のKip(100Kip/1.3円くらいか?)の桁がやたらデカイので、頭が混乱する。 Tシャツ20,000kp、スニーカーが160,000kp、靴下が6,000kp、などと表示されていると、恐ろしく高価な印象を受けるが、 実際は日本の約1/3のマレーシアの物価よりも、もっと安い筈なのだ。 そして、困ったことに“お会計”では、他通貨で決済したりするので、更に何がなんだか分からなくなる。 こういうときは、一同のツアーガイド役と化した長女にすべてお任せだ。 もらったお釣りをみて、「これ計算違ってない?」と、不信感ありありの長女の顔に皆の視線が集る。 夕飯前に、またクレーム爆発かと思ったが、よくよく説明を聞くと、お釣りをタイバーツでくれていたのが混乱の原因であった。 東南アジアに住んでいると、こと、店員とのやりとりに関しては、とても注意深くなってしまう。 「人を見たら泥棒と思え」ならぬ「店員を見たら詐欺師と思え」が定着しているのだ。 が、しかし、ここラオスでは、これまでの少ない経験からすると、そこまで警戒レベルを上げる必要はないのかもしれない。
けっこう長い時間買い物をしていたので、計算疲れもあり、お腹もすいてきた。 個人的には、ビエンチャン最初の夜は、屋台で、地鶏を大胆に裂いて焼いたピンカイという“残酷焼き鳥”を食べたいと密かに思っていたので、 ブティックを出て、川沿いの道を暫く歩いたところで、鳥を焼いた屋台に人が集っているのを発見したときは、肉を食わぬ次女の意向は完全無視で、 そそくさと屋台のプラスチック椅子に腰掛けてしまった。 定番となったビアラオを注文し、息子と、焼いてほしい材料(下焼きしてある八つ裂きの地鶏と、腸詰のような物体)を選んだ。 半ベジタリアンの次女には、無難なチャーハンだけ食わしておいて、皆で鶏肉に齧り付いていると、またまた、不気味な風が吹いてくるではないか。 昼飯のときにスコールがきたので、夜は大丈夫と(勝手に)思い屋外の屋台に来たのに、これでは夕食が台無しになってしまう。 KLでは、こういうときは大きなパラソルを立ててくれたり、店の人が傘をさしてくれて、屋根のある店舗に移動させてくれたりするのだが、 この屋台のオジサン、オバサン達は、自分の店(というかエリア)を風と雨から守ることに必死で、客のことはまったく気にしていないようだ。 とりあえず、我々は、持ち帰り出来るものは、包んでもらい、ビールは、雨が降り始めるまでに、飲めるだけ一気飲みして無駄にしない作戦をとることにした。 その間にも、ツアーガイドの長女が、呼べども振り向かない屋台のオバサンに向かって、「Check !, Check!, 埋單!、埋單!」、「打包!、打包! Take away!」 (はやく、お勘定して、食べ物包んでくれ!)と、命令口調で詰め寄っている。 とうとう、ポツリ、ポツリと大粒の雨が降り出してしまった。 「あちゃ~、ふってきちゃったよ~、これじゃ、27年前のコンサートと同じじゃね~か」と、木陰に隠れようとしたら、 長女に「ここはいいから、パパとママは、あそこのコンビニで雨宿りしてて!」と一喝されてしまっので、交渉ごとはお任せして、小走りにコンビニへ退避した。
「気分を変えて、ホテルの部屋で宴会しよう!」と、我が家の旅行では、毎度お馴染みの提案が、誰とはなく出てきたので、 飛び込んだコンビニで、ビールやスナックを買い込みつつ、雨が止むのを待った。 しかし、今度の雨は、昼のスコールのときのように簡単にはあがってくれそうにない。 コンビニの時計で時間を確認すると、まだ「今日」だったが、さすがにくたびれて来たので、何故かひとつ置いてあった椅子に、 “大黒柱”の私だけ特別に腰掛けさせてもらい、皆はコンビニで買い物しながら、雨が止むのを待った。 しかし、雨は止むどころか、強さを増して来ている。 コンビニの店員達は、特に何も気にしていない(アジア人は何事も気にしない!)から、いつまで店の中で雨宿りをしていても良いのだけど、それでは、こちらが参ってしまう。 僅か600m~700m先のホテルなので、雨に濡れてでも帰って、後でシャワーを浴びれば、寒い地域でもないし、良いではないか、と思い始めたら、 店の前にトゥクトゥク(オート三輪の荷台が客席になっているバスのような乗り物)が止まった。 疲れと、いい加減待つのにも閉口していた私が、即座に反応した。 「ホテルまで近いけど、6人で幾らかな?、由衣(長女)、アレちょっと交渉して来いよ!」 この期に及んで、まだ交渉などといって20円、30円ケチってもしようがないのだけど、そして、この際、日本のタクシーと同じ料金だって良いのだけど、 『ボラれるなよ!』、『OK,値切ってくるよ!』と、親子で無言の会話が成立してしまうのは、育て方を間違ったのか、はたまた正しかったのか、意見の分かれるところだ。
トゥクトゥクの交渉は成立し、僅かな距離だが、我々一同は、びしょ濡れにならずに無事ホテルへ戻ることが出来た。 その後は、シャワーを浴びて、一部屋に集合し、雨で中断した、ビアラオ大会を再開した。 インドネシアン・チャイニーズのYwennaは、日本語は挨拶以外では、“イケメン”くらいしか分からないので、時折英語を混ぜながら会話なのだが、 酔っ払いのバカ話をここで書いても面白くないので、ここは割愛してしまおう。 それにしても、子供達が小さい頃からの、我が家の“家訓”であった「くだらないことで盛り上がる家族」は、いまだ健在だ。 まあ、『父親のオマエに進歩がない』と、いわれれば、それまでの話なのだが、最近ニュースでやっているように、『勉強しろ、勉強しろ!』と、子供に厳しく迫り、刺し殺されてしまった“厳格な父親”よりは、よっぽどシアワセだと思える瞬間ではある。
そんなわけで、ラオス旅行初日は終了。 名所観光はゼロなのに、“ノンビリ”とはいかず、旅のトラブルも含めて色々あったけど、まずまず充実した1日目であった。 元々、予定なし、完全受身の“指示待ち人間の旅”なので、これで良いのである。ああ、しかし今日は疲れた、明日こそは、ゆっくり朝寝しよ~っと。
中編へとつづく。。。
(№61. LAOSでLOHAS〔前編〕 おわり)