№54. 亀田エリカ


「シュガー社員」なる言葉が流行っているそうだ。 厳密な定義はネットで調べてほしいが、要は、なにかと親頼みで自己中心型、楽な方へ逃げるクセがあり、仕事が多いとパニックに陥り、会社と私生活の区別が出来ない、等々の未熟者を指すらしい。 “シュガー”とは、ひ弱な温室育ち感が出ていて、なかなかナイスなネーミングだが、「内定ブルー」などと一緒で、私のようなおっさん達にはムカつく言葉には違いない。 『そうそう、俺の周りにも沢山いるよ』と嘆くビジネスパースンは多いはずだ。 タイトなスーツに先の尖った靴、髪はNHKの堀潤アナ系。明らかに40歳以上の社員とは一線を画すルックスで、最近は、ドブネズミルックのメッカだった大手町界隈でも彼らが主流派だ。 奴らは叱る上司にまで、“感情をむき出しにするな”、“逆にむやみに褒めるな”、“毅然としていろ”と、等々注文をつけたがるらしい。 一方、「シュガー社員」ほどひ弱ではないが、「勝ち組錯覚型」も年配者には疎ましい存在だ。常に勝ち組に自分が身を置いているとの錯覚から、彼らにとっては、上司や同僚が『バカに思えて仕方がない』のだ。 泥臭い仕事は誰か他の者がやるべきことで、自分は全体を俯瞰してコントロールしているつもりなのだが、その視野の狭さが周囲にもミエミエの“若気の至り”クンたちだ。 私も、たまに東京に出張して、オフィス街や盛り場をブラブラ歩くが、「俺様がチャンピオン」、「アタシこそ女王様」、そんな亀田エリカたちがウヨウヨしていて、息が詰まることがある。 私にはまったく実感は無いが、景気が長期の回復基調で、大企業の採用も活発なこの時期、売り手市場に踊る、旧バブル社員の再来クンたちが、企業社会にジワジワと浸透しつつあるのは確かなようだ。


タイプは全然違うが、ボランティア活動やNPOの中にいる「自己満足型」の若者たちも始末が悪い。 私が常に“オカシイ!”と感じているのは、環境問題に関する発言をしている“フツウの人達”の行動の矛盾だ。 「その活動って、本当にタメになっているの?」と、疑いたくなるような活動も多々ある。 休日に環境保全を叫ぶNPOで活動していながら、平日は会社で環境破壊のかぎりを尽くしている人も多いことだろう、まして、江戸時代のような 実効性のある循環型社会を目指そうとマジメに考えていて、それに絶え得る人が彼らの中でどれだけいるのであろうか。 まえにも書いたが、ちょっと廃棄物を減らして“地球に優しいカンパニー”なんていいながら不要不急な新製品を出し続けるなんて欺瞞であり、 本当に地球に優しくするなら、不要不急な新製品など作らないことだ。 まして、環境保全を叫ぶ活動をしているならば、叫ぶ前に、そういった会社では働かないことであり、そういった会社の新製品など欲しがらないことだ。 『CO2排出枠は経済成長の足枷になる』などと、堂々と新聞で発言している財界トップの意見を読むと、 『地球をイチバン汚す人間は環境にとって悪。だから人間を殺すダイオキシンは環境にヤサシイ』と、いった極端なロジックも、結果から見ると正しいかも知れない、と思ってしまうのだ。 『美しい空や海を汚さないで♪』と、週末毎に公民館を借り切ってチャリティコンサートをやるのは良いが、もし、そのボランティア歌手が、平日は 環境破壊企業で普通に働いているのであれば、10数年以上も前から会社でクールビズを実施させていて、且つ、PCやプリンタを寿命が来るまで使い続ける私の方が、 申し訳ないが、環境保全に関しては結果的に数段実効性は上なのだ。 貧困撲滅ボランティアのチャリティ活動も然り。「本当にその募金が貧困を無くすのか?」と、突き詰めると、集めた募金の使われ方まで関与しないと効果は危ういものなってしまう。 飢えた人々には、募金で買った食料は一時の効果的な支援だが、募金が底をつけばまた飢えてしまうようでは有効な募金とは言えない。 孔子だったか、「腹をすかせて倒れている人に魚を与えるな、魚の獲り方を教えてやれ」と、いった意味の諺を本で読んだが、それではちょっとヒドイ。 せめて、「腹をすかせて倒れている人には魚を与えて元気を出させろ、そして次に魚の獲り方を教えてやれ」くらいのスタンスで募金を有効活用しないと、 永久に募金頼りで、貧困の根絶など夢のまた夢となってしまう。 環境破壊や貧困を憂う人たちの気持ちは美しい、そして志も正しい、だけど実効性が無いのであれば、酷な言い方だが、単なる「自己満足」でしかない。 啓蒙活動だけで満足していられるほど時間的余裕は無い筈だ。


マネーゲームが高尚な仕事だと思っている「拝金主義型」の若者も情けない。 特に、テレビでFX取引の成果を自慢げに解説している若い女性などは、危なっかしくて見てられない。 確かに、実体経済の動向や、世界情勢の背景が要素となり値動きする通貨の取引は、一見すると経済行為のような錯覚もおこす。 が、しかし、480倍のレバレッジを掛けられる取引会社もあるようで、こうなると完全な博打でしかない。 「株」だって私にしてみれば博打と同じことだ。 ホリエモンも村上世彰も「株」で大きくなり、「株」の取引の仕方で自分のクビを締めることとなった。 彼等が巨大になり、自滅するまでの過程では、大量の一般投資家がババをつかまされた。 高いモノを買わせ、売り抜けるのが投機マネーゲームの基本だから、普通の情報しか持たない一般投資家なんて赤子の手をひねるがごとく騙される。 まして、相手が投資顧問会社の背後で姿の見えない闇勢力とかであれば、勝ち目なんてあるワケない。 荒稼ぎをしている奴が居るということは、裏で大損している者が居る、という単純な真実を考えた方が良い。 若いうちはマネーゲームで資産形成することなど考えずに、一生持ち続けられる仕事のチカラを蓄えるべきだ。


「拝金主義型」の変形版、「マルチ」に走る若者も蹴飛ばしてやりたい。 前にも書いたが、マレーシアにもア〇ウェイなどのマルチまがい商法をアルバイトとしている若者は多い。 以前、我社に面接に来たマレー系の女性に、「休日は何をしていますか?」と、趣味などを質問したら、「ア〇ウェイやってます」と平然と答えたので苦笑してしまった(もちろん即断で不採用を決定)。 日本でも“円天”などという、簡単にボロが出る仕組みに騙される人が多いと、NHKニュースが海外にも流しているが、恥ずかしいのでやめてほしい。 思わず、『我々日本人って、こんなにアホだったっけ?』と、テレビに向かって質問してしまった。 問題が表面化した後も、「使っても、使っても、目減りしないカネ」を信じる人たちの映像は、オウムがまだ報道される前に、杉並界隈で見た信者たちを連想させ、背筋がゾクっと寒くなってしまった。


「迷惑メール」に携わる「裏IT系」若者はそろそろ首を洗っておいたほうが良い。 迷惑メール対策は、総務省が法制化を検討しているので個人的にはかなり期待している。 私は、ホームページにメールアドレスを晒している関係で、世界各国から一日に200通はメールを受信する。 ただ、休日などは、その内の約98%は迷惑メールである。主な内容は、『バイアグラネット販売』、『売春斡旋』、『ネット販売促進』 で、同じ内容で送信元が違うパターンが多い。最近はロシア語や韓国語、そしてフォントが無くて表示出来ない言語まであり、スパムメールフォルダは大盛況である。 日本語のメールでは、語彙や敬語の誤りで、若者が出していると想像できるものも多い。 青春の真っ只中、貴重な時間をつかって、こんな成果の期待出来ぬ、アホなことをやっているのも非生産的だが、受け取る我々の時間ロスはそれ以上に深刻だ。 スパムメールフォルダに入る“迷惑”と思しき受信メールも、私は商売柄ひとつひとつ判定することが必要なため、それにとられる労力はバカにならない。 これを、日本中のビジネスパースンがやっているとなると、日本のホワイトカラーの生産性は落ち、著しく国益を損なうことになりかねない。 他人の家に、ゴミを放り投げていくダイレクトメールとともに、この「迷惑メール」も強く取り締まってほしいと願っている。


話はちょっと飛ぶが、今年の夏(2007年7月)にベトナムのハノイに3泊で観光旅行に行って来た。 ベトナムは近年発展めざましい国ではあるが、マレーシアなどと比較しても、まだまだ垢抜けない印象である。 市街地なのに高層ビルもないし、露店が多く、夜は暗いし停電もあった、ただ、交通渋滞は激しく、人の数も多い。 「社会主義国家」という言葉の印象とは異なり、活気や熱気という意味ではけっして下向きな印象は受けなかった。 観光は、ホアンキエム湖周辺を歩き、水上人形劇を観て、戦争記念館ではしゃぎ(小学生時代は田宮のプラモデル狂だった)、ホーチミン廟に驚く、至極一般的なものだが、 途中、フォーを啜り、春巻を齧り、ブンチャー(つくね焼き&ソーメン・・・)に馴染み、バインミー(路上で売っているパン)を試す、いつもながらの激安食にトライにしていた。 最終日、無計画に駆け足でまわった観光にも疲れて、休憩を兼ねて入ったレーニン公園は、観光とは別の意味で印象深いところだった。 名前は「レーニン公園」と真っ赤な印象を受けるが、中は新宿御苑のように広く、緑溢れる静かな公園だった。 赤んぼを遊ばせる母親、ウォーキング中のお年寄り、マーシャルアーツを教え合う非番の兵士達。 遠くから聞こえる子供の嬌声につられ、池の畔まで歩いてみると、遊んでいたのは大学生くらいの若者たちであった。 20人くらいの男女が、小学生が朝校庭で遊ぶような陣地取りゲームで大盛り上がりで遊んでいるのだ。 最初は、『ベトナムの学生って子供っぽいなぁ』と、冷めて見ていたのだが、あまりにも楽しそうに皆はしゃいでいるので ついつい、こちらも笑顔になってしまい、『けっこう楽しそうだな、しかし、いまの日本の学生が、こんなことして、ここまではしゃげるだろうか?』 と、とびっきりな「純粋」を目の前にして、複雑な気持ちになってしまった。


楽しいものは何でもカネを出せば買える日本。カネさえあれば苦労もしなくてよい。カネで直接買えない満足感は、貧しい人にカネを与えて得られる。 揚げ句の果ては、漫才師の貧乏談がベストセラーになり、ひとつのエンターテイメントとして成立してしまった。“神田川”や“同棲時代”の頃のそれは 少なくとも『あんな貧乏な時代が我々にもあったな、よくここまでこれたな』的な、時代共有感みたいなものがあることは、中学生の頃の自分にも薄っすらと感じられたが、 “ホームレス中学生”を読む若者の心理はどんなものなのだろうか。 『下積みの仕事はしたくない』、『とにかく早くカネになる仕事がしたい』、『マネージャになって指示だけ出していたい』 なんて言っている彼らが、公園の草や、湿らせたダンボールで飢えを凌ぐ同世代の話をどんな気持ちで読んでいるか、とても興味のあるところだ。 おそらく、ベトナム戦争の映像がテレビで放送されだしたときの視聴者の感覚と似ているのではないかと思う。 悲惨さを一種の刺激材料とした、お茶の間のエンターテイメント。実際に起こっている事実は知識として知りながら、常にそれらは画面の中、本の中の バーチャルな世界の出来事としか受け取れない。その感覚は若者にとって、仕事や人間関係にも及び、現実から仮想への逃避と回復が日々繰り返されているとしか 私には思えない。


タイトルマッチに反則を繰り返したボクシングの“亀田”、映画の舞台挨拶で不機嫌な態度で周りを困らせた女優の“エリカ”。 結果的には世間のバッシングにあい、反省せざるを得ない事態になり、ボクサーとして、女優として、大きな代償を払わされた。 プロスポーツやエンターテイメントの世界は、ある意味仮想の世界ではあるが、それらを構成している要素は現実の人間であり、 様々な習慣やルールがある。まして、皆、社会の一員であり、社会常識がベースとなることは大人が身をもってちゃんと教えてあげるべきだ。 「シュガー社員」、「勝ち組錯覚型」、「自己満足型」、「拝金主義型」、「裏IT系」。。。 道徳的、儒教的なことは、『昔から日本人の心にある』などと、もう思わない方が良い。 そして、何かの本で読んだこの言葉が忘れられない。『子供をダメにするのは簡単さ、なんでも与えてやればいい』、至極名言だと思う。


(№54. 亀田エリカ おわり)

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