№53. 昔ここで何があった?


去る2007年5月14日、自分が東京に出張しているときに国民投票法が参議院で可決され成立した。 既に日本国内では護憲/改憲論争が激しくなって来ていることと思う。 個人的には、実質違憲状態が継続している現状を、強引な解釈で取り繕うくらいなら、今の時代にあった第九条にした方が無理がないと思ったりもするが、 現在の第九条があるからこそ、この程度の状態(海外派兵等)に収まっているという意見も納得してしまう。 しかし、60年前にGHQが数週間で仕上げたという日本国憲法が現代社会に全てフィットするとは思わないし、占領国が日本を骨抜きにするための道具としたとも言われている“第九条”を 「絶対変更してはナラヌ!」といった意見も?マークだ。しかし、押し付けられた憲法とは云え“戦争はしない”という基本精神だけは大切にしたい。 難しい理論や解釈はともかく、普通に考えれば「独立国家として単独で自衛可能な戦力を維持しつつ、自衛の為には戦う権利を保持し、且つ、自分からは戦争を仕掛けたり、 ましてや侵略なんて絶対しません」というのが、国としての“当たり前”ではないかと思うが、違うのだろうか? 現代日本では、銃を持って外国を侵略することに賛成する人は殆ど居ないとは思う。 しかし、集団的自衛権の問題や、外国支援のための自衛隊派遣などは、議論が分かれるところだろう。 他国支援に関しては、それが真の国際貢献であり、且つ派遣先の国民から喜ばれているのであれば、日本の参加を求められることは光栄であり、先進国としての義務でもあると思う。 が、国際貢献の名を借りた超大国の侵略行為に加担させられ、おまけにカネ(戦費負担)まで無心される事態を、どうやって自分の子供達に説明したらよいか、私は分からない。 ましてアジア各国からは「また日本が侵略を始めるのでは?」と在らぬ嫌疑までかけられているのは、なんともやりきれないではないか。


平和(ボケ?)で、物質的にも恵まれた現代日本で暮らしている日本人は「日本が武力でもって他国に侵略するなんてことはあるワケない」と、当然のように考えている。 だが、先の大戦で直接被害を受けたアジア各国の高齢者達は「いつかまた日本人の侵略の遺伝子が表面化する筈だ!」と、警戒を怠れないのは不自然なことではない。 それは、彼らにとっては、あなたの家族を惨殺した犯罪者が刑務所から出て来て「私は更正しました。過去の忌まわしい記憶は忘れて、一緒に楽しく暮らしましょう」 と、言われているのと同等のことなのだ。 幸いにも、被害国の人が書いた本などでは「過去は過去として見つめつつも、発展的な友好関係を築くことが大切だ」と、我々に優しい。 しかし、彼らが優しいからと言って“過去”がキレイに清算されたワケではない。 国家間レベルでは、その“優しさ”の裏には、日本の経済力に対する“期待”が含まれていることは容易に想像がつく。 しかし、個人感情レベルでは「一部の狂人達(軍部)に、泥沼の戦争へと導かれた大多数の日本国民も被害者である」といった公式見解は納得出来ないが、 生きていくためには過去に目を瞑り、未来志向のスタンスを採らざるを得ない、といったところではないだろうか。 それが証拠に、首相の靖国神社参拝や、閣僚の不用意な発言等のセンシティブな問題に対する反応は極めて手厳しい。 「せっかく俺達が過去の犯罪に目を瞑ってやってるのに、お前達自らこの関係をぶち壊したいのか、戦争でナニをしてきたか忘れたのか?」 と、気持ちを逆撫でされた思いが爆発してしまうのだと思う。日本人は、これを“過剰反応”と簡単に片付けてはいけない。 (たとえ自国の都合で反日感情を政府が煽っている背景があったとしても、だ) なぜなら「欧米列強からのアジアを開放する」との大義名分はともかく、実際に日本兵によって辛い目に遭わされた民間の人々は被害者であり、 加害者が被害者の気持ちを全て理解するのは絶対的に困難だからだ。 被害者の気持ちを少しでも理解すること、それは、まず実際に何が行われたかを知ること抜きにはあり得ない。 何度「過去を反省しています」とエライ人が言葉で伝えたところで、我々自身が、何に対して反省しているのかも明確でないのでは、お話にならないではないか。 原爆の悲惨さや、東京大空襲の被害は、日本でもよく目にすることが出来るし、それを決定強行した米国は、過去も現在も許し難い。 ただ、広島や長崎に落された原爆を“日本人への天罰”と理解している人々も外国には存在するのだ。


私は現在マレーシアに暮らさせてもらっているが、この地(シンガポールも含む)も大日本帝国軍の蛮行による被害を受けた悲惨な過去がある。 日本では真珠湾攻撃のことはよく知られているが、その1時間前の1941年12月8日未明に、マレー半島東北部のコタバルに侵攻した日本軍のことは“真珠湾”ほど語られていないので、知らない若い世代の方も多いと思う。私自身、不勉強のまま当地に暮らし始め、うっすらとしか当地で行われた蛮行に関しての知識がなかったのだが、今現在は、関連する本や文書を読む機会も増えた。 一緒に働く従業員にマレー系イスラム教徒が加わり、以前から居た中国系従業員との歴史感のちょっとした違いなどもあり「いろいろ勉強してみようかな」と思っていた矢先、日本での改憲機運の盛り上がりで、今こそ、太平洋戦争(大東亜戦争)中に、当地で日本軍が行ったことについて見つめ直す時期ではないか、と、個人的にだが思いはじめたのだ。 もちろん、戦後生まれの私は事実をこの目で見ていないし、全ての情報は書籍やネットで調べただけだ。 言ってしまえば全て“引用”だ。そして、自分で経験したことではないので「全てが事実なのです!」などと断定する勇気は持ち合わせていない。 が、しかし、そんなことを言い出せば、古代史を語る学者などは皆、妄想家やイカサマ師になってしまう。 歴史認識に関しても、かなり重箱の隅を突っつき合う論争がメディアで行われているので、その辺に引っかかると面倒だが、 色々気にし過ぎてただ沈黙していては、過去は見えて来ない。 私自身、せっかく“現場”であるマレー半島に暮らしているのだし、日本人として、人間として二度と同じ過ちを犯さないためにも、これを機に “戦争中、当地で起こった、日本ではあまり積極的に語られない事実”を勉強してしまおうと思う。

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そもそも、日本が南方進出を決めた背景は、有名なABCD包囲網による国防資源(鉄くずや石油)の禁輸であったと言われている。その意味では安全保障上の決断と言えなくもない。 列強の兵糧攻めに対して南方に活路を見出したのだ。それは、重要国防資源の確保と軍の食料等の現地調達、そのための現地人の懐柔、抑圧を目的としていた。 それらは、日本の本来の意図とは別に、イギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人にとっては日本軍は歓迎すべき解放者であったかもしれない。 が、別の現地の人々にとっては、占領する国がイギリスにかわって日本が台頭してきたに過ぎない。 特に、1937年勃発した日華事変(中国人民抗日戦争,八年抗戦)を側面支援している華僑にとっては、“祖国の敵”にあたるため、日本軍の侵攻は、抵抗の対象でこそあれ、歓迎など到底出来るものではなかった。まして、目的を阻むと思われる現地人に対しては容赦ない弾圧を加える姿勢をとっていた日本軍は、彼等にとっては侵略者以外の何者でもなかった。


1941年12月8日、日本軍はマレー半島をタイ領シンゴラ、パタニ、そしてマラヤ領コタバルから大量の犠牲を払いながらも上陸した。 開戦と同時に“世界最強の不沈戦艦”プリンス・オブ・ウェールズと高速戦艦レパルスを撃沈し、チャーチルを失意のどん底へと叩き落した。 戦況把握が不十分なうえ、優柔不断なイギリス軍を尻目に、日本軍は破竹の勢いで英国軍アジア最大の要塞シンガポールを目指し南下した。 大量の自転車(MIYATA製らしい)による“銀輪部隊”での移動にもかかわらず、翌年1月31日には半島南端のジョホールバル、そして2月15日にはシンガポール(後に昭南島と命名)も陥落した。 その際、現在は観光名所として有名なセントーサ島の海に向けて構築された砲台は、陸地から攻め込んだ日本軍には“役立たず”だったらしい。 緒戦でのあざやかな勝利に日本国内では、旗行列や提灯行列でお祭り騒ぎだったらしいが、現地(現シンガポールとマレーシア)の中国系国民にとっては悲劇の始まりとなる。 陥落後に開始された“敵性華僑狩り”である。シンガポールで6,000人(4~5万人説有り)、マレーシアで7,500人(10万人以上説有り)の尊い命が“抗日分子”のレッテルを貼られ奪われたのだ。


【大検証(華僑粛清)】
シンガポール陥落の数日後に山下奉文司令官(やました ともゆき、「イエスかノーか?」と、英パーシバルに迫ったことで有名)の命令で、シンガポール在住の18歳から50歳(60歳と書かれた本もある)の男子が地域別に集められた。 住民達に目的は知らされていなかったが“敵性華僑狩り”である。集合場所は公園やゴム園、そして交差点やストリート、「食料と水持参で来い、従わない場合は厳重処罰(=死刑)だ」の命令に従い、中には3日間もストリートで大小便を通路の下水ですませて待った親子も居た。 この検証で“敵性でない”と判断されると服に“検”と印をつけられ開放され、“敵性華僑”と判定されると検挙され別の場所に集合することになる。 そこでトラックに乗せられ、海岸まで連行され、8~12人の群で電線で縛られ、海へ向かって歩かされる。 日本兵は海岸から機銃を掃射し、その後、海に入り致命傷を負っていない者を銃剣で止めを刺したそうだ。 奇跡的に生き残った人は「死体が散乱し、マーケットの屋台のうえの魚のような状態だった」と証言している。 また。ゴム園などでは、死体処理の手間を省くために、自ら墓を掘らせた後殺害したとのことだ。先日、仕事で面会した中国系の若い男性は「俺の爺さんは日本語がちょっと出来たので生きて帰って来れた」と言っていたが、“検”マークは、判定する日本兵の気分次第の部分もあったらしい。


【パリッティンギ(港尾:カンウェイ)、シンバ(新芭)の虐殺】
シンガポールにつづきマレーシアにも粛清の波はやってきた。 特にKLを囲むセランゴール州の隣、ネグリ・スンビラン州では、日本軍支配の及ばないマレー半島を縦貫する山脈の尾部であり、密林に潜む共産ゲリラや抗日分子とのつながりのある村も多く、日本軍の情報を流す村民も居たようだ。度重なる粛清(計6回も!)はその報復とも言われている。シンバ(新芭)では、1942年3月15日の午後、日本軍は自転車でやってきて7,8軒の住民を殺して家を焼き払った。それだけでも大変な戦争犯罪ではないかと思うが、これは翌日に行われる大虐殺の序章でしかなかった。 パリッティンギ(港尾)の虐殺は、生き残りの当事者が、日本に対して文章で補償を求めているので、それをそのまま引用したほうが分かりやすいだろう。 (別の本で読んだこの虐殺シーンは、粛々と村民を殺していく日本兵の行動がとても不気味だった)

孫建成(スン ジェン チェン氏)より海部俊樹首相宛の手紙(1989年10月3日付)
『拝啓 私、孫建成は日本占領下のマラヤの生き残りです。1942年3月16日日本皇軍によって私の家族9人が殺されたのを私は自分の目で見ました。祖母と私だけが幸いなことにその悲劇から逃れることができました。私はここにその悲劇の犠牲者として、私の家族に代わってこの問題についてのあなたの関心を喚起し、あなたが満足のいく回答をしていただくことを希望します。(中略)1942年3月16日朝7時、私はパリッティンギ村から出て、約40人の日本兵が自転車に乗って村に入っていくのを見ました。30分後、一人の日本兵が私の家に来て、彼について村の通りまで来るよう命令しました。私たちがそこに行ったとき、すでに数百人の村人が座っていました。そのとき村長は約80人の日本兵に食事を出してもてなしており、村人たちも心配なさそうに座っていました。村人は、食事がすんだら日本兵は我々に話をするのだろうと思っていました。しかし村人はだまされていたのです。まもなく大虐殺が始まりました。日本軍が村にやってきたのは村人たちと話し合うためではなく殺すためだったのです。私はその出来事の目撃者の一人です。私は9人の家族と600人の村人が殺されたことをはっきりと覚えています。(中略) 9人の私の家族が日本軍によって殺されたため、私の喜びの満ちた家庭が破壊されてしまったことは非常に残念です。私はその事件を忘れることができず、いつも記憶にあります。日本政府がこのことについて満足のいく返答をしていただくことを希望します。この虐殺事件で失われた生命と財産に対して、日本政府が補償をおこなうことを私は要求します。日本政府は1967年に2500万マレーシア・ドルの賠償をマレーシア政府におこないました。なぜ賠償がマレーシア政府には渡されたのに、虐殺の犠牲者の家族には渡されなかったのでしょうか。パリッティンギの人々は戦争をしていないのに日本軍によって殺されたのですから、私たちは補償を与えられるべきです。私の補償要求について、首相が満足のいく返答をしていただくよう心より希望します。ありがとうございます。敬具』 (林博史氏の『日本の現代史と戦争責任についてのホームページ』より引用)


【ペナン鍾霊中学教師・生徒虐殺】
今では、日本人駐在員が多く住み、日本からの旅行者も多い“東洋の真珠”ペナンにも悲惨な抗日の歴史がある。 ペナン観光は欠かせないペナンヒルの近くにある名門中の名門の鍾霊中学(含む高校)は、抗日運動の拠点として有名であった。 そのためシンガポール陥落後の1942年4月6日、日本軍は現地の協力者(密告者)の手引きで46人の教師と生徒を一斉検挙し、そして殺害した。 1947年に建てられた碑に書かれている内容が痛ましい。 『日中全面戦争が始まってから、その戦火はペナンにも飛び火し、残虐な事件があちこちで起こった。それに対し人々は怒った。自らは武器をもって戦えないが、金がある人は金を出し、力のある人は力を出すべきとして戦った。そして鍾霊の学生は愛国の情熱をもって終始一貫戦った。華人学校の中でも、とくに鍾霊の学生は最も抗日意識が強く、果敢に戦った。そのため南進を阻まれた日本側に敵視され、骨まで恨まれて手先により殺害された。また一網打尽のため、あらゆる残酷刑を施し、しかもその死骸が晒された。原爆投下により国の恥と家の仇は川の流れとともに東へ流れ去った。彼らは民族大儀のために犠牲になったので、ここ学校の中庭に記念碑を建て、彼らの功績を永遠にたたえて彼らの魂を慰め、その名を後世にとどめておこう』私はペナンヒルも極楽寺にも行ったが、鍾霊中学の存在は知らなかった。次回ペナンを訪れるときは絶対足を運んでみようと思う。


【拷問】
虐殺は逃れたが、共産ゲリラや、抗日活動をしていると疑われた人達に対して行われた拷問も悲惨だった。 電気ショックを与える。指先の爪や髪の毛を抜く。軍用犬に攻撃させる。 縛ったうえに水道のパイプを鼻や口や尻に差し込んで水を入れ、腹の上に乗って踏み付ける。 ある者は中国武術をやっていたがために、日本軍人の格闘技の相手にさせられ殺されたという。 更に惨い例では、抗日青年を匿っていたという“罪”で刑務所に連行されたある女性だ。裸にされ、逆さに吊られ長時間殴られ、タバコの火で失神させられた。 恐ろしいことに、女性の局部に数回も棒を差し込んだ後、オートバイの後ろに縛り付けて走り周り、結果死亡させたという。


【細菌戦部隊】
以前、森村誠一著の『悪魔の飽食』で読んだ旧満州731細菌部隊に似た組織が、マレー半島ジョホール州にも存在した。 精神病院を隠れ蓑として、極秘に培養されていたのはペストだと言われている。大量の蚤(ノミ)と鼠(ネズミ)を日本本国より空輸し、現地で飼育した後に、 ペストを媒介させ細菌兵器とする予定だったらしい。幸い、これらの“兵器”が実戦配備される前に終戦を向かえ、飼育されていた蚤や鼠は ペスト菌をうつされる前の状態で川に捨てられたため、被害はなかった。しかし、もし終戦が延びていたら現地人はもちろん、日本兵にも甚大な被害を与えたことであろう。


【慰安所】
“旧日本軍の展開するところ慰安所アリ”、マレーシアとシンガポールも例外ではない。 全土に点在し、未だ跡地の建物は残ってるものも多い。現地での性犯罪や性病抑止の為に設置運営された多くの慰安所は軍が関与したと考えられている。 この問題は非常にセンシティブな問題なので、あまり断定的な言い方は控えるが、「非常に多くの慰安所があった」そして「強制的に働かされている女性がいた」 と言われている。

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戦争中のこととは言え、マレー半島とシンガポールだけを見ても、随分沢山迷惑な行為を働いて来たものだと思う。いや、感心している場合ではない。 もし、逆の立場で私や私の家族が被害者であったなら、生涯加害者達を許すことは出来ないだろう。 平和に暮らしている家に土足で踏み込み、子供を殺し、妻を目の前で輪姦されておいて“過去の不幸な一時期”で済まされるわけがない。 まして補償(金銭)という最低限の償いも得られぬまま、寿命というタイムアウトで朽ち果てて行った人々の魂は、どこで眠れば鎮まるのだろうか。 日本兵に村民675人、子供も老人も殺された、というパリッティンギ(港尾村)の虐殺証言も、 死亡率9割以上の過酷な労働に、騙されて連れて行かれた、ビルマ国境テーモンタの泰緬鉄道建設のケースも 1967年9月21日の通称“血債協定”で清算済みとして、個人補償はされていないようだ。 矛盾するようだが、実は私は“日本は自虐史観を払拭すべし”という自由主義史観の意見はマクロでは賛成派だ。 500年に及ぶ欧米列強の残虐非道な非白人への略奪行為は、どんなに真実を隠蔽し、且つ歴史を美化しようとも被害者達の心まで騙せない。 そして、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入せざるを得ない状態に追い込み、戦後日本人のアイデンティティまで矯正したGHQには深い憤りを感じる。 しかし待て。歴史のマクロはともかく「その昔、日本兵達によってワシの一族全員(皆非戦闘員だ!)が虐殺された」と主張する爺さん達が存在する限り、 「虐殺は無かった」などと一律に否定し、彼らの気持ちを逆撫ですべきではない。(自虐史観払拭派の重鎮達ですら、関東軍の暴走等を認め“反省すべき”と書いている) 犯した罪を罪として正視せず、従って反省もなく、それでも相手の理解を得られると思うのは傲慢でしかない。 以前、私は自分の息子への医療ミスに対して医者(病院)の不誠実な対応について憤慨するコラムを書いた。 書いたは書いたが、もし相手が誠実にこちらの話を聞く態度であり、且つ過失であることを認めていれば、慰謝料などはゼロでも良いとさえ思っていた。 怒っていたのは、医療ミスを無かったことにするその態度に、だった。 なにも甚大な戦争被害と指一本を比べているのではない。たかが指一本の医療ミスに対してでも「そんな事実は無い!」とトボケられると、殺意を感じる程 ムカつくものだと言いたいのだ。被害が指一本ではなく、愛する家族や多数の友人の命であった場合はどうであろう?・・・答えは明白だ。


色々なことに無関心になりがちな忙しい現代日本人だが、アジアの人々と“わだかまり”なく付き合うための第一歩として、我々がしないといけないことは、 そんなに難しいことではない。それは“昔何があったか?”を知ろうとすることだ。 事実を知らないままでは、反省する心はおろか、補償問題に関する行動などは生まれない。 そして、日本人が犯していない罪まで、作為的に背負わされているとしたら、こいつはタマラナイ。 事実を事実として受け止め、濡れ衣は濡れ衣として主張し、反省すべき点は反省し、補償すべき個々の対象には謝罪と補償を考慮する。 (急がないと生存している補償対象者は少なくなるばかりだろう) これらを、タイムアウト待ちでスキップするか、前向きに対処するかで、当地で生活する日本人に対するの評価も随分と違ったものになることは確実だ。


さて、冒頭の国民投票だが、18歳以上国民全体の投票で憲法改正の是非を問うことは良い。 が、投票までに国民が学ばないといけないことは山のようにあるのではないかと思う。 投票用紙は○か×だけで、意思が無くても意思表示できる単純な方法だと思うので、護憲/改憲両陣営の主張には注意深く耳を傾けておきたい。 自国のことなので、外圧や他国の内政干渉を排除した議論が大切であることは理解できるが、これは正に“戦争の扱い方”を決める議論だ。 謙虚な気持ちで考えると当たり前のことだと思うが、護憲/改憲論争(第九条)を左右する鍵は、日本国内より、むしろ日本の外側の人々の気持ちの中にあると私は思っている。


尚、このコラムの日本軍の蛮行の部分は、陸培春(ルー・ペイチュン)氏の著書、『もっと知ろうアジア』と『観光コースでないマレーシア、シンガポール』の“乱用”と言われても仕方ないほどフル活用させて頂いた。 (稚拙な文章で赤面モノだが・・・)こういった、あまり語られない歴史の恥部を、未だ知らない若い世代の日本人に伝えることは 「日本人が自らの過去を知り、そして反省しないことには未来が生まれない」と主張される氏の趣旨と合致すると、勝手に解釈しているのでお許し願いたい。 また、KL日本人会で偶然お話させて頂いた或る方に“(記者として日本暮らしの長かった)陸培春氏は現在KLにお住まい”と聞いたが、もし機会があれば、直接講演などで勉強させて頂きたいと切に願う次第である。


(№53. 昔ここで何があった? おわり)

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