№50. 年男の抱負


シネマ通でない私は、安い違法DVDが数多く出回っているKLに暮らしているにもかかわらず飛行機の中でくらいでしか映画は観ない。 昨年後半の手帳をめくると「美しき野獣」、「スクールデイズ」、「Always 3丁目の夕日」、「バルトの楽園」、「デイジー」、「嫌われ松子の一生」、「ココシリ」、「海猿2」等を“見た”と書いてあるが中にはストーリーを思い出せないものもある。要するに暇潰しレベルでしかないのだ。しかし、そんな中で渡辺謙主演の「明日の記憶」はちょっと忘れられない映画だ。50歳で突然、若年性アルツハイマー病に襲われた広告代理店のやり手営業部長と妻(樋口可南子)の二人三脚の闘いが描かれていて、主人公と同年代(なんと渡辺謙と私は同い年!)の者としては非常にリアリティのあるテーマだ。加えて渡辺謙自身が病名こそ異なるが急性骨髄性白血病という病気で映画「天と地と」の主役を降板したという経緯もあり、この作品に深い意味を持たせている。内容はここで私が下手な説明を加えるより映画館やDVD等で鑑賞して頂けば良いことだが、ここで描かれている若年性アルツハイマー病の“若年性”という部分が私の不安を煽り、また、そのような病名が気にかかる年齢になってしまったのかという焦りがこの映画を忘れられない作品としているのである。前置きが長くなったが今年(2007年亥年)私は年男なのだ。


昨年末付の東京都総務局発表の統計によると、昭和34(1959)年生まれの都民は約149千人、そのうち男性が77千人(当然残りが女性)だそうだ。世界中で何人今年48歳になる年男がいるのかは不明だが、すっかり老け込んでしまった男性も居れば、私のように比較的若くみられる男(失礼!でも、23歳になる子供が居るなんて見えないでしょ!)も居て人生悲喜こもごもだ。しかし、いくら若く見えたところで48歳の年男などタカが知れている。ITの会社では実務能力は“問題外”のポジションを獲得してから既に10年以上が過ぎ、女性から見た異性としての魅力だって既に子供の世代にバトンタッチ済みだ。「バンドもやってて気持ちだけは若いよ!」などと頑張ってみたところで体の各パーツの消耗度は激しく、日常生活でも不便を感じる部分が多くなり(特に目)、酒を飲めば翌日は必ず辛い。スポーツ界などに行けばほぼ確実に廃人扱いだろう。エジソンが最初の特許をとったのが21歳。ポールマッカートニーが名曲「イエスタディ」を書いたのだって23~24歳。幕末の時代に独自の世界観を持っていた坂本竜馬が死んだ年齢でさえたった33歳。『いったい、俺は48歳まで何をしていたのだろう?』と自分の平凡さに暗くなってしまう。暗くなりついでに書くが、毎年3万人を超える日本の自殺者の大半は40、50代の男性だと厚生労働省や警視庁が発表している。会社では上の層の“団塊の世代”の引退が始まる2007年、責任だけが重くなり、ノウハウ不足の自分を隠しながら無責任世代層を指導していくことが命題だ。家庭においては増え続ける出費(生活費・教育費)に喘ぎながらも社会の良き規範であり続けることを強要される。自身の健康不安、経済的先行きの不透明さ、システムとしての社会への疑問、そして諦め。こんな我々世代は如何に生きて、何を拠り所としていけばよいのだろうか?何もこれは普遍的なことを書いているワケではない、自分自身のことだ。


最近、【宗教】がとても気にかかる。と、いっても別にオウムのような新興宗教の道場に通ったり、独り自室で高い壺を撫でて拝んでいるわけではない。正確には“宗教心を持っている人の暮らしが気になる”と言い換えた方が良いかもしれない。マレーシアはイスラム教徒が過半数だが、仏教、ヒンドゥー教、その他諸々の宗教も当たり前のように堂々と且つ平和に共存している珍しい国だ。街を歩けば宗教心の希薄な日本人の私でも様々な宗教を身近に感じることが出来る。それもかなりごちゃ混ぜにだ。有名なヒンドゥー寺院が仏教バリバリのチャイナタウンの中心にあったり、毎週教会に通う敬虔なクリスチャンの中国系がいたり、イスラムモスクの傍のホーカーズ(屋台の寄り合い食堂)では異教徒達が豚料理をツマミに酒を飲んでいたり・・・。皆それぞれの伝統と教えを守りながらも、他宗教に対してはかなりの寛容さを持っている(本質は無関心だろうが)。また珍しいところでは、日本ではタブーだが履歴書に信仰する宗教の欄が必ずあるし、極端な例だと、ある有名なビザ屋チェーンでは客がムスリム(イスラム教徒)か否かによってサービス料を変えたりもしているらしい。ムスリムがある時間になると勤務の途中でSURAUという簡易礼拝所に行き“お祈り”をすることは有名だが、宗教法が国内法より優先されることも多々あるといわれているほど宗教と日常生活は一体化しているといっても良いだろう。そのような社会環境で「アナタの宗教はナニ?」と問われて答えに窮する日本人はけっこう多い筈だ。以前は私も「日本人の男はカイシャ教(苦笑)だよ!」とジョークで返していたが、そんな質問がうるさくなってくると「“あれは禁止!”“これもご法度!”などと常識の範疇をもっともらしく説く宗教など無くても、日本人は自らを律する道徳心があるので大丈夫なのさ!」と不遜な言葉も吐いていた。しかし、この年齢になり「人生、長生きしたとしてもあと30年か!?」と考えると、このまま歳とって体の自由が利かなくなり最後は朽ちていくだけでは、どうもヤリキレナイと思うのである。輪廻転生を信じ徳を積む生活をしたらよいのか、この世の終末の日に神の審判と救済を受けるために善行を重ねるべきか、はたまた世俗的な生活を極めるか。モスクなどで宗教を通し安寧を得ているように見受けられる人々を見るたびに、宗教心の殆ど無い自分と比較して「心の中がどうちがうのだろう?」と妙に最近“気になる”のである。


人間は衣食が足りると精神面(名誉や達成感)に満足感を求める贅沢な動物だ。私の場合、大方の零細企業経営者と同様いつも資金繰りには困っているが、家族も皆健康で衣食に困ることもなく人並みに生活させてもらっている。名誉などは端から求めないが、仕事での達成感はいつでも欲しいと願っている。そして、いつも何かに興奮したりワクワクしていたいと思うし、そういうことに対して積極的であろうとも思っている。おそらく同世代のサラリーマンの人達と比較しても“まだツカレテイナイ部類”だと思う。48歳を前にして様々な人生の選択肢が少なくなって来ているのはとっくに受け入れ済みだが、おそらく60歳になっても「不惑」の境地には至らないだろう・・・。が、しかしだ。こんな私も人並みに、多くの中高年が抱えているような漠とした[不安]に襲われるときがある。『仕事が途絶えてしまったらどうしよう?』、『社員に給料が払えなくなったらどうしよう?』、『突然俺が死ぬかボケたら家族はどうなるのだろう?』、『地震で東京の事務所が被害をうけたら食べていけるだろうか?』等々、主に夜明け前のアザーン(モスクから大音量で聴こえてくるコーラン)とともに夢の中で襲ってくるのだ。まあ、[不安]の無い大人はあまり居ないと思うが加齢とともに[不安]の質も違ってきて、最終的には“生きる/死ぬ”の世界になってしまうのかも知れない。[不安]が生死感にまで辿り着くと世俗レベルではとても解決不可能で【宗教】の扱う領域になってしまうのだ・・・。まったくもう!、冒頭の「明日の記憶」の影響で今特に持病もない私もそんなことを考えてしまうようになった。


タイトルを“年男の抱負”としながら暗い話が多くなってしまったが、実はまだまだ元気で、音楽(ギター)も続けるし、本は年間最低でも100冊は読むつもりだ。 宗教に関しては「常識的な教養として色々な宗教のお勉強もしてみたい!」といった程度で、とりあえずは実生活に宗教が入ってくるのはアートや書籍のレベルでしかないだろう。 とはいえ、けっして若いとはいえない4度目の年男なので「自分の体を大切にし」、「頭を柔軟に保ち」、「ワクワク興奮できることをする」というのが月並みだが今年の命題にしようと思う。


正直、神様にすがりたくなる時期はもう少し先にしたい。


(№50. 年男の抱負 おわり)

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