不幸は何の前触れもなしに突然やってくると思われがちだが、後で気付くと僅かであるが兆候らしきものが思い当たる場合がある。通勤時に軽い自動車事故に遭ってしまったその月曜の朝、私は酷い夢で目覚めていた。夢の中、何かの野球大会で入場行進している自分の上半身が裸だと気付き洋服を取りに戻った筈の建物が末期症状の老人をケアする施設だった。中で彷徨ううちに骨と皮の老人(というより化け物に近い)達が廊下に溢れて寝ているところに迷い込み足の踏み場もない。彼等は何か助けを求めているようだが恐ろしくて老人達をまたいで走って逃げる自分。ジャンプして着地すべき位置にひとりの爺さんを確認したその瞬間に目が覚めた。極度の二日酔いを除き生まれてから45年間で最悪の目覚め方だった。朝食を食べていてもシャワーを浴びていても湧き上がる不吉な予感。案の定というか、この朝あまり遭遇したいとは思わない交通事故に巻き込まれてしまった。ただ、数週間経った今振り返ると、この不吉さに対する警戒感が事故を小さなものにしてくれたのではないかとも考えられる。おそらく夢で警告を与えて我が身守ってくれたであろうご先祖様に感謝しつつ、マレーシアにおける交通事故の体験などを書いてみようと思う。
発展めざましい東南アジアの中規模都市クアラ・ルンプール(KL)は工事中の場所が多い。私が車をぶつけた道も工事中で車線が微妙に狭くなっている部分だった。通勤の車が多い割には道幅の狭い幹線道路を抜け、中心地へ向かう車が居なくなり皆がスピードを上げ始める郊外へ向かう道路でそれは起こった。いつもならそれまでの交通渋滞(現地ではJAMと言う)を抜けてアクセル全開直前の場所なのと、この国のドライバーの特徴でもある極端に短い車間距離を真似ているせいか、突然急停止した前の車に急ブレーキでは対応出来ず滑ったまま衝突してしまったのだ。当然のように後ろからもドスンと当てられてほんの一瞬だが頭が真っ白になってしまった。『やっちゃったよ~。』
いつも
日中車を使いたいがめに私の通勤に付き合っている助手席の妻と怪我がなかったことは安堵しつつも、そのときはこれから始まる異国での事故対応に暗い気分になっていた。この時点での正直な気持は“大した故障でなかったら自腹で修理してもいいので面倒な手続きに振り回されたくない。”,“いつかはこんな事があるとは思っていたが、ひとりでなくて良かった。”,“開き直って顛末をコラムのネタにするしかないか。”の3つであった。実は事故自体は今回が初めてではない。以前にも後ろから衝突されてバンパーを破損したことが2度。深夜猛スピードで接近してきたトラックに左ミラーをもぎ取られたことが1度(この時は自宅までミラーなしで帰るのに苦労した)。交差点に止まっていてドアを擦って逃げられたことが2度。徐行で接近してきたチャイニーズの兄ちゃんに無言でミラーを曲げられたことが1度。後方からゆっくり追い越し気味に横入りされたのを頭に来たので譲らなかった為に前方を擦られたことが1度。ああ、書いてて思い出してしまった。深夜中央分離帯の縁石に右前輪をぶつけてタイヤをバーストさせてしまいパンクしたことがあった。周囲の人達が仰天するほどの大音量だったようだが停車もせず7cmくらいの大穴を開けたタイヤのまま友人を送り、その後自宅まで数㎞運転して帰ったこともあった。翌朝修理の人に来てもらったが『こんな状態でよく運転出来ましたね。』と呆れられてしまった。これらの経験の中で一度だけ示談で修理代を弁償してもらったことはあったが、他は相手が逃げてしまったり、自分のせいだったりで全部自腹で修理してしまっていた。しかし、今回の事故はバンパーが破損してボンネットも曲がって開かないうえに4~5台による多重衝突だったので他の人の補償やらもある為『自腹で修理するから私はここで失礼します。では!』というワケにも行かない。まして、見えない部分が壊れていたりした場合も考えると保険でカバー出来ないのは経済的にちょっと辛い。仕方なしに既に外で始まっている関係ドライバー達の協議の輪に加わることにした。
車外に出て詳しくみると、前に3台うしろに1台そして私の車と計5台が相次いでぶつかったようだ。“こんな時はどうすりゃいいんだ~?”と動転しつつも平静を装って妻に車のナンバーと各ドライバーのICの番号を控えてもらった。因みにICとはマレーシア国民が携帯しなければならない身分証明証で、将来的にはMyKadなるチップ入りの新カードになるという話もあるが、現在のものはあまり立派とは言えない写真付きパウチカードである。そのカードの名前からするとドライバーは前から2台がチャイニーズの女性で私の直前がこれもチャイニーズの男子学生だった。私の後ろはインド系のビジネスマンのようだったが私の車の後部の損傷が少なかったのをみて『あなた体は大丈夫?だったら私は行っていいね?』と聞かれたので、前部の損傷で混乱していて且つこの手の対処に無知な私は『この程度だったらいいよ。』と車のナンバーもICも控えずに開放してしまったのだ。悪いことに(本来は良いことなのだが)私の車以外の被害はバンパーがちょっと凹んだ程度で大したことなく、朝の大渋滞を作っている我々に対する風当たりも激しく何度もバイクの兄ちゃん達に怒鳴られるので『じゃ何かあったら連絡してね』といった感じで早くも解散しそうな雰囲気だった。このままでは狡猾なローカル達に丸め込まれてしまったのと同じだと思い『ちょっと待ってくれよ、俺は誰に請求すれゃいいんだよ?第一先頭の人が急ブレーキかけたのが原因だろ?あなたにチャージしていいの?』と聞いたら。『いやいや、私の前の人が急ブレーキかけたので私も止まったのよ、でもその人は逃げちゃったのでしょうがないのよ。』と先頭のドライバー。『じゃ、俺の前で突然止まったアンタに弁償してもらえばいいのね?』と学生君に言うと『いやいや、私にその義務はないですよ。とにかく保険で・・・』みたいなことを言うので、その学生君との話し合いの末、警察署に行ってポリスレポート(事故証明)作ることになった。実は知識としては保険請求等にポリスレポートが必要で事故発生から24時間以内に届出をしないとダメだということは知っていたのだが、いったい何処に行けば作成できるのか、また、それはどんなものなのかはまったく知らなかった。幸い私の車もカタチは悲惨になったが動くようだし、前に走っていたドライバーの学生君は意外と常識人で且つどちらかといえば親切な男の子だったので彼の先導で近くの警察署に行くことになった。
近くの場所とはいえ一方通行の多いKLではかなり遠回りして行かないと辿り付かない場合がある。前部がグシャと潰れた車で長い道のりを運転するのは恥ずかしいと同時に火でも噴かぬかと心配であった。まして前の車を見失わないように朝の渋滞をついていくのはあまり気持の良いドライブではない。警察署の建物が見えたときは、もうすぐ不安なドライブから開放されるという嬉しさと同時に“この後どうすれゃいいんだ?”という不安がない交ぜになっていた。が、先導車は警察署には入らず近くの貧相なショップロット(ブロック全体に店が連なっている建物群で店の前に客用の駐車スペースがある)へと車を入れて止まった。後をついて行くしか選択肢の無い我々夫婦は頭に疑問符を幾つも浮かべながら学生君の後ろに車をとめた。駐車した左手に自動車修理工場があったので、“あの学生調子いいこと言って、ここで修理させて丸め込む気か?”と警戒心が芽生えだした。暫くすると悪意があるのか、はたまた退屈しのぎなのか『わ~事故っちゃたのか?』と何処からともなく人が集まって来てチャイニーズ系のあまりお金の無さそうな人達に囲まれてしまった。“どうして警察に行かないんだ?”という我々の疑問を投げかける前に学生君が『警察署の入り口が分かんないので今問い合わせてるんだ、ちょっと待ってて。』と言い誰かに携帯電話で連絡を取っている。その間に自動車修理工場からもおっさんが出てきて何語か分からないけど『修理するか?』と問われたようなので、“イヤ”と何語か分からぬ言葉で答え返したり、見知らぬオバサンが妻の傍に寄ってきて小声で『車の中にあるハンドバッグは注意しなさい!』と警告されたり、一体ここは敵地なのか安全地帯なのか判断不可であった。電話を終えると学生君が『ポリスレポート作るとRM300(RM=リンギット・マレーシア、現地通貨)かかるんだってよ。それにレポートはこの近くの警察署では作成出来ないのでちょっと遠い警察署にいかないとダメみたいだ。それでも行くかい?』と、たった今知り合いから仕入れた情報だとばかりに言ってきた。行政の仕事でそんな大金(円換算で1万円くらいだが、こちらの感覚だと3万円以上)がかかるとは思えないので、益々怪しいと思いつつもポリスレポートが無いと保険もおりないし、この修理代がRM300以下で済むとも考えられないので、『で、何処の警察に行けばいいんだい?』と聞くと、私も場所を知っているチャイナタウンのライブハウスの傍の大きな警察だったので、“コイツ嘘はついてないな”と思い案内してもらうことにした。『OK、じゃ後ついてきて!』と言う彼の車に40歳くらいのオバサンが同乗するようなので、頭に浮かんだ疑問符は増えるばかりだった。無事警察署に着いた後に妻がその同乗してきたオバサンに『あなたはボランティアでついて来てくれたの?』と問うと、学生君が『彼女は僕のカズンだよ、ひとりでは不安なので付いてきてくれると言ったんだ。』ということだった。散々怪しいと疑ったりして申し訳なかったが、要は、“彼が場所を知っている警察に行こうとしたけど入り口が分からないので、その場所の傍で商売をしている親戚に携帯電話で聞いたら、チャイナタウンの警察じゃないとダメなので、場所やら手続きが彼ひとりだと心配だと思いついてきてくれた。”というワケだったのだ。あの自動車修理工場のおっさんも、寄ってきたチャイニーズ達も別に悪意があったワケではなく『事故っちゃたのかタイヘンだね~』といった程度だったのだ。ポリスレポート作成にRM300もかかるのかは依然として謎のままだがとりあえず不安は薄らいでいった。
さて、これからが本番だ。チャイナタウンの端にある警察署に着き入口で“車はあっちに入れなさい!”と指示された署とは反対側の駐車場は、さながら自動車達の野戦病院か死体置場だった。私の車のようにまだ動くいたって軽症のものから、車ってこんなにも変形するものかとビックリさせられる程に大破したものまで事故車が沢山並んでいた。嫌なモノを見たが自分の車でなくて良かったと気をとりなして警察署の建物へ向かう。 殆どノーセキュリティの門をくぐると傍に外来者を受け付ける建物がある。中に入って最初に目につくのが、これでもかとばかりの凄惨な事故写真の数々だ。鮮血を迸らせた死体写真だけでここを訪れる人達に安全運転を誓わせる目的であれば充分だと思うのだが、酷いのは首だけ転がってこちらを見ている(もちろん目の部分は線で隠しているが)写真とかもあって、唯でさえ事故で動転している者達への追い討ちとしては度が過ぎているのではないかと思ってしまった。肝心のポリスレポート作成は親戚のオバサン他周囲の人達がいろいろ教えてくれて助かった。はじめに必要だったのは手書きの依頼書のような一枚の紙きれで、住所、氏名、車の登録番号、パスポート番号、そして何処で何時ごろ事故が起きたか、といったことを書いて提出した。見知らぬおっさんが隣で色々教えてくれるので、“この国は困った者には親切な人達が多いな、流石イスラムの国だ。”などと無邪気に感心していたら、“事故車の修理ならウチでやるよ!”と名刺を渡されてしまい、シラケると同時にかえって安心した(それゃ、皆商売だもんな。)。 紙切れを提出して順番待ちの間に携帯電話で会社にアクシデントの件を伝え暫く待っていると制服の職員(警官?)に呼ばれた。彼はPCのポリスレポート作成システム(らしきソフト)を立ち上げてくれて、これを使って入力しなさいと私に指示してどこかに行ってしまった。それはVisual BasicかAccessでつくられたWindowsクライアントサーバシステムのようだったが、商売柄こんなことが気になってしまった自分にふと苦笑いしつつも、てっきり何か質問されてそれをお巡りさんが調書のようなものに記入していくのかと思っていたので拍子抜けしてしまった。しかし、入力画面が全部マレー語でけっこう苦労した。住所、氏名、男性といった簡単な単語は日頃から目にしているので分かったが、その他はついて来てくれた例の親戚のオバサンに聞き、それでも不明なものはマレー人の職員に聞き、なんとも時間がかかったが基本項目は埋めることが出来た。問題は事故状況説明の英作文だったが、よくみると壁にサンプルがあったのでそれを利用しつつ、いつ、どこで、どんな状況で、誰(相手のナンバー等)と事故を起こして、被害はどのくらいで、未知の損害の可能性もある・・・等々を不完全なスペルも気にせず打ち込んで行った。自慢じゃないが内容にまったく自信がなかったので利害関係のある相手の学生君も巻き込んで英文チェックさせてしまった。入力の済んだデータを確定しプリントアウトする方法が分かるまでこれまた時間がかかり、たった一枚のポリスレポート作成用データ入力が終わったのはここに来て小一時間経った後だった。「これを持って上階のオフィサーのところに行きなさい。」と指示されたので、とっくにレポートの仕上がっている学生君と共に上階へ上がった。どうやら利害関係者双方の意見をオフィサーが聞いて裁定をくだす手続きのようだ。被害者意識でいっぱいの私達としては、この裁定で白を黒と言い包められてはタイヘン(相手が外国人だとそういう例もあるらしい)とばかりに意気込んでオフィサーの大部屋を訪ねたが、扉の近くで3~4人の一般人らしき人達が順番を待っていた。とにかく来たことと要件を伝えておこうと中に入ってオフィサーを探したが『あ~?彼等は今下でお茶してるよ。』との同僚の言葉に肩透かしを食らってしまった。勤務中に要件のある一般人を待たせたうえでノンビリと甘ったるい紅茶などを飲んでいる姿を想像しながら“今日は一日掛かりだな”とため息混じりに呟くのだった。
15分くらい待っただろうか、ゾロゾロと爪楊枝をくわえて階段を上がって来る紺色の制服の一団が見えた。“あいつ等納税者を待たせておいて、団体でお茶どころか朝飯まで食ってたのか・・・”と少しカチンと来つつも、ここは冷静に対処しなければと自制していた。我々の順番が来た。大部屋のイチバン奥の痩せ型で知性のありそうな人が我々の裁定役だった。双方の提出した書類をサラリと読んだあと、おそらく私の緊張を解そうとしたのだろう、冗談まじりに「Mr. Maekawa, ジャパニーズですね、マレー語は話せますか?」と訊いてきた。こちらもジョークのつもりで「いや、マレー語は話せません。」と片言のマレー語で答えた。これが意外と皆にウケたので場がほぐれたような気がして得意になったのも束の間、「Mr. Maekawa, マレーシアの法律ではね、車がぶつかった場合は後ろの人の不注意として扱うんですよ。今罰金の納付書を書きますからRM300を月末までに納めてくださいね。はい、ここにサインして!」と言われてしまった。そうだったのか、学生君が言っていたのは“警察へ行ってポリスレポートをつくると、アナタの罰金も支払うことになりますよ。それでもいいですか?”という意味だったのだ。保険で車を修理する為にはポリスレポート作成が必須だが、これで修理代がRM300以下だったらこれまでの努力はまったく意味の無いことになってしまう。まして、納付書を切られてしまえば以前王宮の前の路肩を走っていて罰金をとられたときのように“示談(ネゴともいうが)”では済まされない。 結局、自分こそが被害者だと思い込み、前で急ブレーキを踏んだ学生君に弁償させようと意気込んで警察まできたが、罰金を科せられたうえに学生君の車の補償まで自分の保険でしなければならないことになってしまった。このときはじめて私の後ろにぶつけたインド系のビジネスマンがさっさと逃げていった真意が理解できたがあとの祭りだ。 出納のセクションでポリスレポート代金(たったRM4だった!)を支払い、私の名刺を学生君にあげて意外と親切だった彼らと別れた。とにかく帰ろうと駐車場に戻ったが 停めた自分の車のうしろに別の事故車が置かれてしまい、妻が散々持ち主を探したり、私が傍の警官に文句を言ったが事故で死んでしまったワケではないだろうがドライバーが見つからなかった。“俺の車もどうせ修理に出すのだから体当たりして退けてしまおうか”などと過激なことも頭をよぎったが、一旦近くのお粥で有名な屋台のあるローカル・コーヒー・ショップで昼飯を食べてから出直すことにした。警官には“あの車のせいで俺の車が出せないから、ちょっとマカン(食事)してくるからね、見ててよ!”と、言っておいたのに40分くらいして戻ってみると今度は別の車が邪魔している。こりゃ長期戦かと思いノーセキュリティの警察の門をくぐってトイレに行って帰って来ると、妻がたまたま居たレッカー屋をタダで使って邪魔者を排除させていた。マレーシア生活5年半のキャリア恐るべしである。私といえば、事故のせいか色々あって疲れたのか腰が鈍く痛くなってきたので、会社にも行くのをやめて、明日からの不便な“車無し生活”を思い家で引き篭もっていたのであった。
翌日からは車のないマレーシアでの生活がこんなに不便なものかと思い知らされた。 通勤や退勤の時間帯にタクシーをつかまえるのは至難の業で、特に混雑の激しい事務所のある地域にタクシードライバーは行きたがらない。 車無し初日の通勤は度重なる乗車拒否に遭いキレてしまい自宅に戻ってゆっくり出直すことにした。 日本と違いマレーシアのタクシーの乗り方はちょっと違う。ここでは乗り込む前に目的地を告げてドライバーとの交渉が成立しないと客になれないのである。 二日目は賢くなり前夜に親しいタクシードライバーに予約をいれておいたのだが見事に反故にされてしまった。またまたキレて『大切なビジネス客との約束を破るような奴とはもう二度と会うことは無い、アバヨ!』と絶縁宣言までしてしまった。いいかげんタクシーに愛想が尽きたのでその日の夜はバスを乗り継いで帰ることにした。しかし、実際問題KLのバスを使って行きたいところに自由に行ける人間なんてローカルにだってそう多くは居ないのではないかと思う。当然のようにバスに不慣れな私は、あてずっぽに来たバスの行き先を周りの人に聞いて乗り込み『とりあえず、このバスの目的地は知っているので、そこまでは行ってから後のことは考えよう。』といったイイカゲンなものだった。挙動不審にイチバン後ろの席に座っている日本人が可哀相と思ったのか、終点間際に親切な女子大生風のチャイニーズが近寄ってきて『あなたKota Rayaみたいなチャイナタウンに行きたいようには見えないけど何処に行くのですか?』と聞いてくれた。結局、この娘さんに自宅の近くのAmpang Pointまで行くMetro Busの乗り場(なんと傍には東京三菱銀行がある!)まで連れて行ってもらい無事にバスで帰ることが出来たのであった。流石に激安料金のバスだけあって客も一目で低所得者層と分かる汗臭い人達が多いし、バス自体も窓が割れている部分があったり、扉を閉めずに走ったり、かなり雑な世界ではあった。が、普段運転しない地域を車窓からキョロキョロ見るのは楽しいし、何より“俺もマレーシアの一般の人達と生活してるんだな~”と妙に嬉しい気分になってしまったのは不思議だ。事故以来はじめて気分を良くしたので次の朝もバスに乗って行こうと思っていたが、複雑な路線図と混雑したバスが多いのでやめにした。癪だがダメモトでタクシーに手をあげると助手席にマレー女性の客を座らせた車がすぐ止まった。マレーシアではたまにタクシードライバーの判断で客を相乗りさせることがある。ただし、相乗りだからって料金を折半するなんて発想は無いので料金は交渉次第となる。 『どこに行くの?』と逆に聞いてみると私と同じ方角のようだ。『おたくはどこに行きたいの?』と問われたが、本当の目的地を告げると乗車拒否されることは分かっていたので、『PJ方面ならどこでもいいよ。』とごまかして後部座席に座ってしまった。最終的には目的地まで私の都合で直行してもらってメーターより若干(30円だけだが)多くお金を払ったら感謝されてしまったのだけど、先に乗っていた女性は何も文句も言わずに微笑んでいたのはどういうことだったのだろうか?。 この間にも妻は、通学や買い物に車が使用出来ない不便さと、時間に超ルーズな修理業者との対応にストレスが溜まってしまった。が、なんとか約10日間の修理期間を経て戻って来た車は、新しくつけたナンバープレートが違ってたといったご愛嬌もあったが、事故の痕がまったく分からないくらいピカピカだった。
今回の事故は幸いにも車が少し壊れた程度で大した被害はなかった。しかし、この程度の事故でも沢山無駄な時間を費やし、ストレスを溜め、不便を受け入れなければならない。これが人身事故だったらと思うとその精神的苦痛に気が遠くなる思いだ。“大きな事故を起こさぬようにご先祖様が小さな事故を与えてくれた。”そう思うと憎きRM300の罰金納付書も御札のように見えてくるから不思議だ。
(№42.暗然運転 おわり)