日本時間の2004年7月7日の午前零時を過ぎた。実は今日は私の45歳の誕生日なのだ。日本人の誕生日ってのは日本時間で判定していいのか在住している所の現地時間で決まるのか・・・“どっちだろう?、俺は今死んだら何歳で死んだことになるのだろう?”などとくだらないことを気にしていたらマレーシアも1時間遅れて7月7日になった。どうやら不吉な数字の44歳は無事のりきれたようだ。しかし、40歳代も半ばになった今あらためて思うと、40歳代ってのは子供の頃想像していた“中年のおっさん”より随分内面的には子供っぽいものだったんだなと自分を見ると妙な気持になる。反面、日本人の平均寿命が男女共に50歳を越えたのが昭和22年というから、一昔前であればそろそろ“老い”や“死”を意識しないといけない年齢になってしまったことになる。まだまだ自分を“若い”と思い、且つ諸々の邪念が捨てきれずに足掻いている日常を思うと、昔の人達は相当早い時期に人生を達観し、それなりの覚悟を決めて40歳~50歳代を生きて行かざるを得なかったのだと関心しきりだ。思えば自分も30歳代の最後に「40歳になる前に自分の生活を棚卸して一旦自分でリストラしよう!」などと考えていたのもマレーシアに来た理由のひとつだった。40歳代前半ってのは体力的にも仕事的にも家庭的にも人生で大きな節目のようで、私の周りにもその頃に独立したり再婚したりと重大な決断をしている人達がけっこう居る。色んなことに対して先が見えて来てしまい疎ましい日常への“飽き”がピークに達し、それに抗う最後のチャンスの年代なのかも知れない。“飽き”といえば、私は常々自分でも飽きっぽい性格だと思っている。一冊の本を読み終える間には数冊別の本を摘み食いしているし、CDを5枚買ったとしてしもジャンルはバラバラで酷い場合は買ってから実質最後まで聴いてないアルバムなんてのもある。夕飯の残りを翌朝食うのも嫌だし、電車で通勤していた頃は車内に前日と同じ顔が居るだけで暗い気持になったものだ。開き直るワケではないが、なんでも途中で投げ出してしまう“飽きっぽさ”は別として、私は“飽きる”ということはけっして悪いことではないと思っている。自己弁護のように聞えたら本意ではないが、極端にいえば“飽き”とは人間が多感で創造的且つ健康に生存する為に神様が人にすりこんだ大切な機能だと考えてもよいのではないかとさえ思う。好きな食べ物でも毎日食べれば飽きるということも、快体験が常に同じ快体験であり続けることがないことも、すべては“そんなことをずっと続けていたら死んでしまいますよ!”と内なる声が言っていると理解すれば、マンネリや単調な日常を嘆くことだって正常でこそあれ悪いことでは決してないのではないか。不惑の世代半ば、責任ある行動を期待されながら、この“飽き”とどう付き合って行けば良いか・・・私にとってはかなり重要なテーマなのだ。
仕事のやり方に関しては前のコラム(№40)で書いた通り充実した(飽きのこない)ものにしようとけっこう試行錯誤をしているつもりだ。高度成長期の大量生産時代のように没個性的働き方を未だに金科玉条にしている古い経営者の方には不評な言い方かも知れないが、『楽しく熱中し生産性を上げて且つ飽きのこないよう創意工夫をしたい!』といったところなのだ。当たり前だが仕事が楽しい人は幸せだ。楽しくやった仕事に評価(見返り)があれば尚幸せだ。数多ある企業のホームページで“社長の挨拶”や“先輩達のことば”に出ているような見せ掛けの“やる気”だけを鼓舞しても所詮見返りが無ければ当事者達にすら虚しく響くだけだろう。しかし、今ここで話題にしているのはそんな単純なことではない。40歳代の方なら実感として分かってもらえると思うが、たとえ仕事が順調であり且つそれなりのペイも保証されていたとしても、何か漠とした不安や満たされない気持が心にあるのではないだろうか。『自分は今までと同じことをしてて満足なのか?』、『生活は安定したが、何の刺激もなくこのまま老いへのレールにのってしまって良いのか?』、『その昔、思い描いた夢は永久に封印してしまって良いのか?』、『何か事を起こすには、体力、気力的にも最後のチャンスなのでは?』等々。仕事面では頼れる上司、生活面では強い父親である反面、そんな葛藤がない交ぜになって現状への興味を失ってしまったり、考えられない破廉恥な軽犯罪を犯してしまう脆さも孕んでいる世代でもあるのだ。40歳からはEQ(Emotional intelligence Quotient)面を充実させていかないと若い世代のお荷物になってしまうと警告する本もあるが“不安”や“不満”そして“飽き”を客観視してコントロール(自分を焚き付けたり、ガス抜きしたり)することが大切だ。私自身もEQ度を高める大切さをやっと最近になって理解し出したところなので大したことは言えないが、自分を客観視する努力は怠らないようにしたいと思っている。(出来る出来ないは別として・・・)
さて、このコラムは『アジア暮らし秘話』なのでマレーシアでの生活面はどうだろうか。意を決して掴んだマレーシア暮らしも5年を過ぎて少々マンネリ気味なのは確かだ。そして、そろそろ何か始めたいといった心境も嘘ではない。が、ここでの生活にはまだ精神的に頼るところが大きい。もちろん来たばかりの頃に受けた刺激の数々を再び望むことは無理だが、東京出張で気が滅入ってしまった後などは空港近くの椰子のプランテーションや泥の川などを見るだけで癒される想いがするのは事実だ。ここに2001年6月17日の朝日ウイークリーに載せてもらった文書(原稿)がある。約3年前になぜだか頼まれてこのコラムなどで書いていたことを集約して提出したものだ。PCのファイルを整理していて偶然出てきたのだが読んでみて少々驚いた。こんな飽きっぽい私なのにここで書いていることは今もほとんど気持が変わってない。長いがそのまま引用してみよう。
<<<引用>>>
クアラルンプール(KL)に暮らし始めて3年目に入った。好きこのんで妻子を引き連れてKLに移り住んで来た私は今でもここが気に入っている。もちろん、良い事ずくめとは言わないが“日本に帰って暮らしたい”と思ったことは一度もない。ちょっと暑いが心地よい気候のなかラフな服装で、安くて美味しいローカルフードを食べ、ゆったりとした間取りの家に暮らす。子供達3人が各国の友達と机を並べるインターナショナルスクールには“学級崩壊”なんて言葉はない。東京ではちょっと手に入れることが困難な衣食住および教育環境。私と家族にとってKLで暮らすことはとても楽しくまた充実しているのである。
私が家族と移住するまでのプロセスはこうだった。予てから漠然とした海外生活願望はあったのだが、それに対して何ら積極的なアクションを起こすことも無く平々凡々と小さなコンピュータソフト開発のSOHO会社をやっていた。そんなあるとき仕事で香港を度々訪れる機会に恵まれ、そこで見た“現地法人”なるものに強い魅力を感じたと同時に、そこで働く人達の英語が想像以上にブロークンだったのに驚かされたのだった。簡単に言うと“外国人を雇って英語で仕事するなんてカッコイイ!”と思い“しっかりとした英語でなくても大丈夫なんだ!”と勇気付けられたのだった。その一方で日本各地に群発する地震被害に対して“地震の無い国で暮らしたい”と単純に考えていた矢先に奥尻島での大被害が報道され、続く阪神大震災の一報を耳にした時点で東京いや日本脱出の決意をほぼ固めたのだった。それからは、地震がなくて英語圏で且つ少ない投資で会社を設立してワークパーミット(VISA)のとれるアジアの国を求め書籍やインターネットで調査する毎日が続いた。香港、シンガポール、KLなどが候補にあがったが、現地での食文化や生活習慣そして滞在費用などを調査して最後に残ったのがマレーシアのクアラルンプールだった。家族全員で現地視察にも訪れた。一度目は旅行者の目で、二度目は在住予定者の目でチェックしたがなんと全員が気に入ってしまった。結局、長女の中学卒業と長男の小学校卒業を待って1999年3月末に一家5人揃って日本を脱出しマレーシアでの生活を初めたのだった。今では4人のローカルスタッフを雇い小さいながらも憧れの現地法人でブロークン英語の社長をやっている。当地では採用面接予定者の6割が姿を見せないかと思うと、雇って3日で退職願を持って来る輩もいたりする。納期当日まで焦らない感性には今でもストレスを感じることがあるが“郷に入れば郷に従え”で最近は大概のことは気にならなくなって来た。 これは日本人として良いことなのか悪いことなのか判断が難しいが、自己紹介はこのくらいにしておこう。
さて、日本人にとってマレーシアという国は「印象の薄い国」のようだ。仕事で日本に出張したとき友人や取引先の人達にKLでの暮らし振りなどよく問われるが、毎回日本人のこの国に対する知識の薄さに驚かされる。熱狂的なマレーシア旅行のリピータもいる一方で首都の名前はおろかどんな人種が暮らしているかも知らない人も多い。そんな人達には「マレーシアはタイとシンガポールの間にあり、マレー系と中国系とインド系の人種が共存していてイスラム教をメインとして仏教、ヒンドゥー教などの宗教があり、それぞれの人種や出身地域別に話す言葉が違うのです。」などと説明してあげる。そして「そこには一万人近い日本人が暮らしていて大きな日本人学校もあり、伊勢丹やジャスコや紀伊国屋書店もかなりの品揃えです。」、「マハティール首相が強力に推進している国家IT戦略プロジェクトのMSCは…」などと付け加えるとますますイメージし辛くなっていくようである。
当地の魅力について書こう、何と言っても一押しは食べ物、「多民族」が生み出す多種多様なローカル料理が挙げられると思う。マレー料理、中華料理、インド料理、それらの混合料理、その他外国料理。本当に美味いものがリーズナブルな値段で食べることが出来るのは嬉しい。特に私の好きなのはチャイナタウンのローカルコーヒーショップで食べるワンタン・ミー、お粥、チキンライス、カレー・ミーなどのB級グルメ品だ。テ・タリックやコピなどの飲み物と合わせても150円くらいで幸せ気分に浸れる。元在住者が日本帰国後恋しく思うのがこういった激安ローカル食だというのも納得できる。旅行者だって高い金額を吹っかけられる事はないので、最初は入り辛いかもしれないが是非トライしてほしい。これだけでもマレーシアに来る価値ありだ。ホテルのレストランとマクドナルドだけじゃ実にもったいない旅だと思う。
もうひとつ私が強く感じている魅力がある。それは言葉でははっきり言表せないのだが、強いて言えば「流れている時間が日本と違う」ことだ。東京に行くと一日がKLと同じ24時間だとは思えないくらい速く過ぎ去ってしまう。東京では相対的に自分より世の中のスピードが速く、KLでは自分の方がちょっと速いような気がしてならない。ただ単に、午後7時過ぎまで明るいせいか、テレビをあまり見なくなったからかも知れないが「走ってなければ取り残されてしまう!」的な切迫感を、朝な夕なモスクから流れるアザーン(コーラン)が薄めてくれるような気がするのだ。
時間感覚、車の運転、各種サービス、そして多民族間のコミュニケーション手段としての英語、全てにおいて“大雑把”であるこの国の人達、日本の過剰気味な厳密さに鍛えられた目で見ると“雑”に写ってしまうところも多いと思うが、現地感覚に馴染んでくると“英語が中学で習った文法と違おうが”、“エレベータの床がちょっとずれてようが”、“盛りつけされたライスがダマになっていようが”、「そんなことガミガミ言うほどの事じゃないじゃないか」と思えて来るのは不思議だ。確かに観光で行く歴史のあるマラッカや美しいティオマン島も魅力的だが、私にとっては「完璧な人間なんていなし、他人の目なんて気にすることはないよ。」とでも言いたげな、そんな気軽さがこの国でもう少し暮らしていたいと思わせる一番の魅力かも知れない。
<<<引用終り>>>
現在の私は気持の上では東京とKLの二重生活をしているようなものだ。滞在比率でいえば(東京)1:9(KL)くらいだが、ほとんどネット上での仕事の為、実質的な仕事での配分は(東京)7:3(KL)といったところだろうか。海外移住と夢のようなことを言ったところで、日本(東京)なくしては事業も生活も成り立たないのが現状なのだ。そんな頼りにしている日本、いや東京はすべてにおいてスピードが速く、他人との物理距離が狭い。心理学でいうパーソナル・スペースが侵されている状態が多いから心がザラついてくるし尖がった奴も多い。そのうえ、高コスト生活を維持する為には企業や都市といった機能の一部としてかなり消耗的なルーチンワークを強要される。そして多くの人達はそれを“シカタガナイ”ことと考えている。私もその機能の一部として仕事をもらい、狭い心理的パーソナル・スペースを受け入れ、速いスピードに追い縋りながら生活を支えているのだ。年齢のせいかここでの暮らしが長くなったせいか大都市東京に対しての免疫が確実に薄れて来ているのが実感できる。そんなとき、ふと感じるのは、ある意味ここマレーシアは心が疲れたときの逃避先、逃げ込む場所としてのオアシスだから“飽き”るなんていう次元ではないのかも知れない、ということだ。
深夜。遅れてきたスコールの後、日中の日照りが嘘のように風が心地よい。日本では中高年の死因のトップが自殺といったご時世に、そんな癒しの場所がある自分の境遇に感謝の気持でいっぱいのバースディだ。
(№41.アジアの風に癒されて おわり)