№20.国境の街〔後編〕


さっき寝たばかりだと思ったが、既にハジャイ遠征二日目(7月7日)の朝になっていた。 前夜セブンイレブンで買っておいた朝食代わりの甘ったるい缶コーヒーを飲み、身支度をして集合場所のロビーへと向かった。 感心なことに、今朝も例の大学生がトゥクトゥクの値段交渉と行き先を告げる為に来てくれていた。 昨日と同じ要領で全員を2台に詰め込みグラウンドへ向かう。 昨夜受信した顧客からのメールで「明日の土曜に連絡がほしい!」とあったので、グラウンドから携帯電話で日本へコンタクトをとってみたが別の人に「今日は休日ですよ!」と軽くいなされてしまった。 その後携帯の調子が悪くなってしまったので、コンタクトをとるのを諦め日中は野球に集中することにした。


第一試合で三塁塁審をしているときに、後発隊の連中が予定より遅れてやって来るのが見えた。 彼等は昨夜KLを出発して、マレーシア国内を国境近くまで移動した後一泊し、今朝タイのイミグレーションが開くのを待って入国して来たのだ。 朝からホテルでしっかり朝食を食べて来たらしくやる気満々でちょっと煩いほど元気一杯である。 試合のほうは相手が“振り逃げで三塁へ走ってしまうような初心者チーム”であったり“タイナショナルチームの選手が混じっているチーム”であったりでレベルの差が激しく、昨日同様大勝かボロ負けのどちらかであった。 しかし、今回の目的は勝敗ではなく「近隣諸国チームとの親善」であり「遠征を通じてチームの結束を深める」ことなので、結果はこの際どうでも良いのである。 親善といえば、私がベンチで観戦しているときに、チョンブリーのプリンセス・ジュラポーンズ・カレッジの少年二人がひょこりやって来た。 何やら人懐っこそうな少年達で、全く言葉が通じないにも関わらず我チームの控え選手達とキャッチボールを始めているではないか。 ボールの投げ方や捕り方を見る限りでは、野球を始めたばかりのようだが、実に楽しそうにやっている。 私も嬉しくなり英単語とゼスチャーと地面に絵を書く方法で会話してみた。 分かったのは「バンコクの近くのチョンブリーから来て、野球が大好き」ということだけだったが、こちらの事を気に入ったらしく暫くベンチを去ろうとはしなかった。 タイ語でしきりに何かを言っていたが、彼等のTシャツに書かれたチーム名と「コップンカー」くらいしか理解出来なかったのは残念で仕方が無い。 後で聞いた話だが、彼等の学校はタイの中でもかなり裕福な層が通うところらしく、土日以外全寮制の学校に週末お迎えにくる車はベンツが多いらしい。 あの、街中で見るガツガツとした野生の目を持った子供達と違い、人を疑ったことの無いようなおっとりとした態度はそういうことだったのだ。 お揃いのユニホームや、行き届いた道具類で遠征に来られるのもこれで納得だ。


第一試合の後、昼食は安全な学食で各自で食べることにした。 学食といっても、街中のフードコートと同じようなものなので期待してミックスライス (タイ米を盛った皿にカレーライスの要領で汁や好きなおかずをぶっかけて食べるアジアではごく普通のスタイル、経済飯とも言う)を食べたが、ピリ辛の野菜サラダ以外は期待外れだった。 一緒に買った“ミリンダ”のようなオレンジ飲料も甘すぎて×だったが、値段は全部で100円程度なのであまり文句は言えない。 野菜サラダだけ買ったことにして我慢しよう。 食後はコーチ連中と、何の為か売店で“レッドブル”とかいう強壮剤を買って飲みほし、ブラブラ大学構内を歩いてグラウンドへ戻った。 その後、幸い直射日光が少ない天候だったとはいえ、南部タイのアウトドアーで一日中審判などをやって立ちっぱなしだったので非常に疲れてしまった。 試合中も、審判をしながら意識が遠のく事数回、「アウトカウントはいくつだっけ?」、「何試合目だっけ?」、「早くビール飲みたいなぁ」、「あっ、ゲームセットか...」てな具合で長かった3試合が終わった。 試合後の記念撮影や、監督コーチのお小言も終わり、「さあ、今夜は何を食べようかね~」、「とにかくシャワー浴びたらロビー集合だ!」などと、 マレーシアからチャーターしたマイクロバスでここまで来た後発隊の子供達に、まだ今回乗っていないにトゥクトゥクを体験させながらそそくさとホテルへ帰った。


ホテル到着後、1時間後に再びロビーに集合して夕食の時間だ。 今夜は、後発隊の7人も一緒で昨夜より人数が多いので何処に行けば良いかと迷っていたとき、昨日の夕食の時に“行方不明”だった副代表が 「昨日タイ側の関係者と食事をした店なんかどうでしょうね、今日もそこで食事をする約束になっているので合流してしまっては?」と、提案してくれた。 このとき、初めて彼は“行方不明”ではなく、タイの少年野球関係者との人脈を広げるべく努力していたことが判明したのだった。 何故か“部屋に忘れ物をした。”という複数の人を残して、我々はホテルを出た。 その店はホテルから5分も歩けば見えてくるオープンエアーの庶民的なレストランだった。 しかし、残念なことに夕食時だった為か30人近い団体がすぐに席を確保できるほど空いてはいなかった(と、いうより満員に近かった)。 普通なら諦める場面だが、他を探すのも億劫だし見渡せば3テーブルくらいは既に食事を終えて団欒タイムに入っているようだ。 “これならイケル”と判断し、とりあえず空いたテーブルから子供達を座らせてしまう作戦に出た。 そのうえ日本語で「ここはもう食べ終わってるから、もうすぐ空くよ!」などと指を指していれば、言葉が通じなくたってプレッシャーを感じるものだ。 ましてこんな時は、店の経営者も早く客を回転させた方が儲かるので協力的だ、何やら食器を片付けたり、席を詰めさせたりして場所をつくろうとしているのが見える。 20分くらい掛かっただろうか、何とか全員分の席が確保出来たのでシンハーを飲みはじめることにした。 そうこうしていると“部屋に忘れ物をした”と言っていた人達が大きな箱を手に到着した。 実は彼等は“忘れ物”などしたのではなく、私の為にわざわざバースデーケーキを買いに行ってくれていたのだ。 そういえば7月7日は私の誕生日、事前に日頃親しい監督には「その夜は俺の誕生日パーティーだね!」などと冗談で言っていたが、完全に頭から消えてしまっていたので本当にビックリだった。 他の客を完全に無視しての「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」の大合唱にはちょっと照れくさかったけど、こんな大人数に誕生日を祝ってもらったのは初めてだったので正直感動してしまった。 乾杯の後は、例によって最長老のオーダーする料理の山々、またしても食べ切れない程の皿がテーブルに並んでしまった。子供達にも分けてあげようと彼等のテーブルを見ると手つかずの皿がかなりある。 昨夜の経験が何も生きていない、アルコールが入ると学習機能のまったく無い団体さんである。 子供達をお母さん代表にホテルまで引率してもらっておいて飲みつづけた挙句に、異国では禁じ手の“~オンセン”とかいう生モノの海老まで食らってしまい、結局今夜も酒池肉林の食い散らかしディナーをやってしまったのだった。 最後に勘定を支払ったとき“さすがに今夜は高価だった!”とほろ酔い頭で後悔したが、後で冷静に計算したら一人あたり900円弱と破格の安さであった。 夕食後は、最長老の指揮のもと男軍団一致団結して“街中見学”に出掛けたが、日中の疲労や年齢から来る体力的限界もあり、結局疲れきってホテルの部屋に帰って来たのであった。



三日目の朝、この日は定刻になっても例の大学生が来てくれていなかったので、自分達でトゥクトゥクの交渉を始めようとしたとき彼が走って来た。 彼の他にも今回地元の学生達には本当にお世話になった。 移動手段の手配、飲料水の供給、買出しの手伝い等々彼等が居なかったら今回これほどスムースに事が運ばなかったことは確かだ。 そして皆何を頼んでも(お母さん達の強引な頼みごとにすら)決して嫌な顔ひとつ見せず手伝ってくれたのだ。 様々なアジア関連本に登場するタイ人男性は「イイカゲン、働くのが嫌い、女たらし」というように、社会人としてマイナス要素ばかりが強調されている場合が多いが、 今回出会った人々は、かなりそのイメージとは違う人達であった。3日間だけの表面的なお付き合いなので決定的なことは言えないが、日本人の持っているタイ人へのイメージはかなり歪曲化されたものなのではないだろうかと思う。 タニヤやパッポンを徘徊している人々だけがタイ人ではないのである。 夜の新宿歌舞伎町で「ここを歩いている人達が典型的な日本人だ」などとは誰も言わないのと同じ事である。


嬉しいことに、昨日ベンチに遊びに来ていたチョンブリーの少年二人が、試合中に我々を慕ってか又遊びに来てくれた。 育ちが良いせいか、宗教的なものかは不明だが、お母さんの一人がクッキーを勧めても遠慮してなかなか受け取ろうとしない。 前日かっすり仲良くなっていた私が、「いいから貰っちゃえよ!」とゼスチャーで言うと、二人は顔を見合わせ「コップンカー」と両手を合掌してからやっと受け取ってくれた(それも袋ごと全部)。 相変わらず言葉は通じないのだが、記念に一緒に写真を撮り、暫く一緒に過ごした後彼等は自分達の仲間のところへ戻り元気な応援に加わった。


またこれも試合観戦中のことだが、連夜の暴飲暴食が祟ったのか朝方は快調だったお腹の調子が何故か悪くなって来るのがわかった。 幸い子供達は“生モノ”に気を使っていたので大丈夫だったようだが、コーチの中にも今朝から調子が悪くなった人もいる。 “マズイな”と思いながら見回してみてもグランドの傍にあるトイレといえば、学生寮の端にあるタイ式のみである。 湿った床に非常にシンプルな構造の小さな壷のような便器と、右手には事後処理用の水瓶に入った水と桶。 決して不潔ではないが、慣れない者を圧倒するには充分なインパクトである。 個室に入ってみて気が付いたが、生憎ティッシュなどはベンチに置いて来たバッグの中だ。 背に腹は変えられないので意を決して“正しい使用方法”で使ってみた。 しかし、意外なことにこれが非常に快適なのである。 いや、快適というより紙の事後処理のほうが数段不潔に思えてくるから不思議である。 数年前に沢木耕太郎原作の「深夜特急」がテレビドラマで放映されたが、そのときの主人公役の大沢某が、(正確には記憶していないが雑誌か何かに) 「撮影中のカルカッタで水と左手で処理出来た日から僕の人生観が変わった!」と、いうような意味のこと書いていたが、正にそれである。 あまり綺麗な話ではないが、私も別の意味で人生観が変わったので、この場でカミングアウトしてしまおう。 前にもどこかで書いたかも知れないが、異文化を最も現実として感じることの出来るのは、やはり“トイレ”である。


話を野球に戻そう。 最終日の試合迄で皆それなりに良い結果を残せたようだ、3年生投手は完投出来たし、帰国予定の生徒にクリーンヒットも出た。 一方では、ヒットでランナーに出てもボールに集中していないと牽制球でアウトになることも身にしみてわかっただろうし、コーチャーの重要性も理解できたと思う。 彼等なりに多くを学び、やれることは全部出し切ったのだろう。 全試合が終わり、タイの野球関係者とKLでの再会を約束しホテルに帰るトゥクトゥクの中の子供達の顔は満足げであった。


荷造と身支度を終えて、ホテルをチェックアウトする前に、息子は一人街の激安露天で念願だったメジャーリーグの帽子を買ってきた。 そのあと、初日に行った店でレバーの多いダック・ミーを食べながら「俺は全て激安のタイが気に入った、次来る時は絶対“買い物デー”が必要だ!」と、主張する息子に相槌を打ちながら、私は痛み出した胃を擦っていた。 全員分のチェックアウトが終わり、来た道を車で引き返す。 国境を超えアロースターの空港についた頃には疲労もピークだ。 しかし、子供達をスバン空港に迎えに来ている保護者に引き渡すまでは気は抜けない。 若干機内で待たされたが、飛行機は夜のアロースターを飛び立ち小一時間でスバンに着陸した。 あまり気を使って旅をしていたつもりは無かったが、到着ロビーで迎えの人達の顔を見た瞬間気が抜けてしまった。 夜も遅いしコーチ達も明日は朝から皆仕事なので、簡単なセレモニーの後は早々に解散した。


妙に胃が重く、限界に近く疲れていたが、翌週は東京での予定も詰まっていたので、家についてからPCに向かって細かい仕事をこなした。 海外遠征も良いが、体力とスケジュールをうまく調整しないと精神的にも肉体的にも辛いものがある。 その夜はあまりに胃が重たいので、「この手の遠征は今後は自粛しないとだめか?」と、考えながら暗い気持ちになって寝たのだった。 しかし、後日体調も良くなり、地元誌の「南国新聞」に載った子供達の感想文などを見たら、「また連れて行ってやりたいなぁ」と、前向きになっている自分を発見した。 “体が資本”というけれど、体調が良くないと何事も積極的に考えられないものである。 適度な運動と、ストレス発散の為の少量のアルコールが理想だが、現実は逆をやっていることが多い。 運動量も多く、酒も飲まずに健全に楽しむ術を持つ子供達を、少しは見習わないといけないと思う今日この頃だ。 次は9月にペナン島、11月にシンガポールと予定されている遠征だが、今回の反省点を生かす自信は私にはまったく無い、本当に困ったオヤジだ。


(№20.国境の街〔後編〕 おわり)

前のページ/ 目次へ戻る/ 次のページ