№19.国境の街〔前編〕


一ヶ月くらい前になるが、タイのハジャイという街に行って来た。 №11話のシンガポールに続き、2度目の少年野球チームの海外遠征である。 今回は仕事がちょうど忙しい時期で、出発前日まで長時間残業を繰り返していたうえに、顧客や社員達に“不義理”をしての参加である。 とはいえ、前回のシンガポール同様、せっかく普段滅多に行けない地域に行くのだから、“野球”ばかりでなく、地元のローカルフードでもたらふく食べてこよう、と言うのが陰の目的である。 チームについては以前に書いたので詳しくは触れないが、今回は、息子の所属する中学生チームを、監督とコーチ達とともに引き連れての父母代表としての旅である。 ご存知のように、南国マレーシアではあまり野球が盛んではない。 少年野球をやっているチームなど殆ど無いのが実状で、日本人学校とインターナショナルスクールの日本人生徒を中心に構成された“在マレーシア日本人チーム”が、何故か実力とは全く無関係にリトルリーグのマレーシア代表となってしまっているほどである。 おまけに、他チームと試合をしたくても、少年野球チーム自体が近隣に存在しないので、シンガポールやタイへ出向かなければならない。 日本だったら、自転車で隣の学校へ行って出来るような練習試合ですら、我々はパスポート持参で出かけることになるのである。 今回は、もともとサイパンで行われる、リトルリーグアジア太平洋トーナメントへの招待を“マレーシア代表”として受けていたので、出場を検討していたのだが、フィリピンや日本経由の旅費が高くつくことと、日程が直前まではっきりしなかったのを理由に辞退してしまった。 しかし、その大会を最後に引退して行く3年生にとっては、「それでは可哀想」となり、急遽当リーグの役員が伝手を辿って対戦相手を探すことになった。 シンガポールのチームとは、定期的に試合をする約束が出来ているので今回はパスし、バンコク、ペナン等が候補に挙った。 最終的に、こちらから依頼し、それを受け入れてくれたのは、タイで野球を教える為に日本から派遣されて、バンコクに2年間在住されている古主さんという方であった。 古主さんは、年齢は三十代前半で、日本でやっていた教師を休職してタイへ“野球大使”として派遣されている好青年である。 日本への帰国が間近だという彼のアレンジで、タイ側からは、バンコクの近くのチョンブリー県よりプリンセス・ジュラポーンズ・カレッジのチーム、 南タイのナコンシータンマラート県より体育学校のチーム、そして地元のブルーマウンテンという、大人のソフトボールチームが参加することになり、 タイアマチュア野球連盟の協賛も得て、マレーシアとタイの国境に近いタイ南部の都市ハジャイで、「第一回ベースボールフレンドシップゲーム」が開催されることになったのだ。 マレーシア側も、参加希望のあった生徒は一日学校を休ませ(日本人学校の校長先生のご好意で生徒達は出席扱いとなった!)、 先発隊として選手12名プラス大人9名が、金曜早朝から日曜夜までの2泊3日の予定で出発することにした。 12時間遅れで出発する後発隊の7名(選手5名大人2名)を合わせて総勢28人の団体だ。 皆さんの中には、「子供等は修学旅行気分だが、引率する役員や世話をする親達もさぞかし大変だろう」と、思われる方も多いと思う。 確かに、外国ということもあり、安全面では非常に気を使うし、体力的にもキツイ。 しかし皆好きでやっていること、大人達(お母さん方5名含む)はそれなりにけっこう楽しんで来てしまったのだ。


KLからハジャイまでのルートを確認しておこう。 KLIA(Kuala Lumpur International Airport)が出来てからはかなりショボイ印象だが、元国際空港のスバン空港発マレーシア国内線の飛行機でアロースターという北部の都市まで飛ぶ。 狭い機内でオレンジジュース一杯のぶっきらぼうな“もてなし”だが、一時間弱なので気にはならない。 タラップで直に地面に降り立ち、預けた荷物を待つ間にチャーターしたバスの運転手達と落ち合う。 そこからマイクロバスに分乗して30分くらい走ると、途中に立ち寄るローカルフードの食堂で、運転手に、 「全員分のタイ入国書類をこちらで書くのでパスポートを預けてくれ!」などと言われるが、つい今し方会ったばかりの“おっさん”に、命の次に大切なパスポートを渡すわけには行かないので、 誰とはなく「子供達も勉強の為に自分で書かせるし、試合に遅れたくないので早く出発してくれ!」と、アジア暮らしで培った強気で突っぱね、先を急いでもらう。 しばらく走るとマレーシアとタイの国境に到着する。 バスを降り、その気があれば簡単に強行突破出来そうなイミグレーションで入国スタンプを押してもらい、記念写真など撮って、再びバスに乗り込む。 国境付近は、流石にタイにしてはイスラム色の強い地域だが、道路脇の標識が徐々に理解不能なタイ文字に変わり、異国に来たことが実感できる。 南部タイのホコリっぽい田舎道を爆走すること小1時間。 見えてくるのは、街中をすり抜けるトゥクトゥクや、露天で売られるTシャツ、道路際にはみ出した怪しげな屋台やワイ(合掌)のポーズで金をせびる幼ない子供。 そこにはバンコクと比べるとこじんまりとした印象だが、想像していたよりずっと華やかなタイらしい都市があった。


事前にタイアマチュア野球連盟の人が手配してくれていたおかげで、ホテルには昼にチェックインすることが出来た、アーリーチェックインと言うやつだ。 21名分の部屋割りは、何も事前に決めていなかったので多少時間がかかったが、なんとか落ち着き、やっと昼食にありつける。 大声で、「各自適当にどこかで食事をして13:00にユニホームでロビーに集合、ただし子供だけでは外出しないこと!」と、言い渡したあと、自分の部屋を確かめ、 フロントに「部屋の電話でインターネット接続出来るようにしてくれないか?」と頼んでから、安易にマクドナルドに向かうグループを尻目に、息子とローカル屋台を探して外出する。 きっかり約束の時間通りお迎えに来てくれたタイアマチュア野球連盟の人には申し訳ないが 「腹が減っては戦は出来ぬ」なので、こちらから「マイペンライ!」させてもらって、今回の陰の目的でもある“タイらしいローカルフード”を探して路地を進む。 これといって行く当ての無い他のメンバーも後から付いて来たが、構わずいつもの“わがままウォーキング”を継続する。 後ろのメンバーがはぐれても、大人もいるようだし、現地通貨は会費のなかから1500バーツを各自に集合場所で支給してあるので問題ない。 暫く歩いたが、あまりビビッと来る店が無かったので、適当なローカルフード店に入り、ハジャイ第一食目としてミースープを注文する。 そのままでもイイ味出していたが、テーブルに備え付けのナンプラーや唐辛子で自分なりに味付けをするともっと旨くなる。 調子にのって唐辛子を入れすぎた息子のスープはいただけないが、マレーシアの半額くらいで食事が出来るのは親子で文句無く合格点を付けた。


勝手気ままな昼食も終わり、ホテルのロビーに全員集合。 今日から3日間我々をお世話してくれる地元の大学生に会う。 英語が堪能だということだが、その時はお互いロクな自己紹介もしないままに、ホテルの前で彼が値段交渉してくれたトゥクトゥクに乗り込み、 会場となるプリンス・オブ・ソンクラー大学のグラウンドへ向かう。 このトゥクトゥク。 バンコクで良く見かけるオート三輪のようなタイプではなく、普通の軽トラック(我等が監督の勤める某日系自動車メーカー)の荷台を改造したもので、 最初見た時は6人乗りかと思ったが、大学生の薦めで10人と11人の二台に子供大人すべて詰め込んでしまった。 値段は一人10バーツ(約27円)なので、一人一台づつ乗っても良いくらいなのだが、子供達にとっては、 詰め込んだ荷台から落ちそうになりながら眺めるハジャイの街もそれなりに気分が出て面白い経験だろう。 10分程で到着した大学の敷地は広大で、中に寮やフードコート、そしてセブンイレブンなどもあり、ひとつの町のようになっていた。 グラウンド自体はあまり広くなく、イレギュラーバウンドしそうな地面であったが、急ごしらえのマウンドや、バックネットもある一応野球のそれであった。 子供達が準備運動をしている間に、初対面の古主さんや、タイの野球関係者に挨拶して早速ゲームに入る。 今日までのハードな仕事と、移動疲れでぐったりしながら審判をしている私と違い、子供達は夕刻まで元気に二試合をこなしてしまった。 第一試合は気分良く勝たせてもらい、二試合目は、「長旅でお疲れでしょうからこれで止めときますか?」と気遣う先方の優しい言葉に従わなかった為か、ボロボロにやられてしまった。 「明日があるさ、さあ帰ってシャワー浴びて飯でも食いに街にくり出そう!」と、我々一同めげもせず帰りのすし詰めトゥクトゥクに乗り込んでホテルに帰った。


約1時間後、夕食のため再びロビーに集合だ。 しかし、計画性の無い我々は(既にどこかに消えてしまって見当たらない我団体の副代表を除く)20名の大所帯にも関わらず予約のひとつもしていない。 まして、皆ハジャイは初めてなので、適当なレストランなど知る由も無い。 とりあえずホテルのロビーで、お母さん達のひとりがもらってきた周辺の地図を頼りに、あてずっぽに歩くことにした。 日本からの旅行者だと、アジアの雑踏を歩くのに慣れるまでちょっと時間がかかると思うが、横断歩道の無い、車の往来が激しい大通りを、全員一緒にあっさりと渡りきってしまったのには「流石アジア在住者団体だ!」と妙に関心してしまった。 道々レストランを覗いたり、店の中にに入って主婦の圧力パワーでメニューの値段交渉やチェックをしたりして周辺を歩きつづけること約20分。 そろそろ「もうどこでもいいから入ろう!」とか「俺はマックでイイよ」などと聞こえ出したころ、信号待ちしている背中越しにローカル感覚で手頃な店を発見した。 私が先に入って店のオヤジに20人分の席と、冷えたシンハービールがあることを確認して全員を中に誘った。 外から見ると普通のローカル食堂だが、店の奥はレストラン風の造りになっていて、まあまあ落ち着ける感じだ。 自分達で勝手にテーブルや椅子を移動して、子供用と大人用の二島を作ったら宴会の始まりだ。 団体最長老(何故か店で仕切るのがお好きなようだ)のオーダーする食べ切れない量の中華風料理と、トムヤムクンなどのタイ料理をツマミに、凍りついたグラスでビールを流し込み馬鹿話をする。 子供達も彼等なりに楽しくやっているようだ。 我々の中には、学校の先生のように、しっかりと皆を引率する管理者然とした者がいないので、一見単なるパックツアーの団体に近い。 それも全員マレーシア在住ということもあり、妙にアジア慣れしているから厄介だ。 大人は容赦なく我ままなリクエストを連発し、子供等は腹が膨れれば騒ぎたい放題だ。 日本だったら顰蹙モノだが、こんなことがあまり目立たないのがアジアの安食堂の良いところだ。 20人で散々食い散らかし、シコタマ飲んでも合計で1万円もしなかったのは申し訳ないかぎりだ。


初日の夜だが、疲れもあり9時前には早々にホテルに引き上げ、各自各部屋自由行動とすることになった。 修学旅行気分の子供達は、誰かの部屋に集まりワイワイやっているようだが、私は平日ということもあり、溜まっている筈のメールをチェックする必要があった。 しかし、ここの電話器はどうやっても回線への差込口が見つけられないので、昼にフロントへ「インターネットへ接続したいので頼む!」とお願いしておいたのだ。 その時は「マネージャーに相談して後で対応します」などと言っていたのだが、そのレディとフロントで顔を会わせても、こちらをただの酔っ払いだと思っているのか、 まったく何もしてくれる気配がない。 こうなったらしょうがない、自分でなんとかしようと、壁から出ている電話線と電話器の間にあるサイドテーブルを分解してみた。 しかし、ある筈のモジュラージャックは完全に違う型式で、これでは埒があかないことが判明してしまったのだった。 簡単に諦めるわけには行かないので、ノートPCと変圧器持参でフロントに行き。 「さっき、なんとかしてくれるって言っただろ!最悪フロントの電話線からでも良いので貸してくれ!」と、頼んでみた。 「今すぐ手配しますから部屋で待っていてください」、「すぐとは何分後のことだ?」,「Now!」などとかなり強い口調の会話が続いたが、 「エンジニアを部屋に行かせたので、早く部屋に戻ってくれ」と言われてしまった。 どうせ1時間くらい待たされるのがオチだと思いながら、部屋の前に戻ってみると、若い内気そうなハンサムボーイが部屋をノックしていた。 事情を話す必要もなく(話ても通じないと後で分かったが)早速彼は電話線の先端にモジュラージャックを取り付けてくれた。 が、電話器で会話が出来ない接続にしてしまったので再度直してもらい、最後にインターネットでメールを取り込むところまで立ち合わせてから、礼を言い釈放してあげた。 非常に助かったので50バーツくらいチップでもあげようかと考えたのだが、これで3回も食事が出来ると思うと急に勿体なくなって止めてしまった。 取り込んだメールは19通あったが、幸い急を要するものは無く、一安心して息子を誘いセブンイレブンで激安な買い物をしてから、シャワーを浴び直してベッドに横になった瞬間に眠てしまった。


(№19.国境の街〔前編〕 おわり)

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