毎年3月から4月にかけては“別れ”と“出会い”の季節である。マレーシアの日本人社会も例外ではない。最近は毎週のように誰かの送別行事に顔を出していた。野球チームのコーチや生徒達そして音楽仲間、皆企業から派遣されて来ている駐在員とその家族達である。マレーシアを離れ別の外国に転勤する人、日本本社に帰る人、そして高校受験に備えて日本の中学に編入する子供達。約一万人いる在留邦人の入替えはこの時期がピークである。4~5年暮らして帰国する人が多いようだが、ほぼ皆会社の都合でここに暮らし会社の都合で去って行く人達である。
不思議な事に私の知っている限りではほぼ全員が「日本に帰りたくない!」または「家族全員一緒に暮らせるならマレーシアで生活したい!」と言っている。それはそうだろう、落ちたとはいえ日本はまだまだ経済大国である。大企業の駐在員ともなれば広い豪華な家はメイド付きだし大きな車に子供達の教育費まですべて会社が面倒みてくれる。給料は日本並にプラスαが付くが使うカネは当然日本より激安の現地価格だ。かなりの贅沢をしても日本より安くあがるので、それまで慎ましく暮らしていた典型的なサラリーマン家庭としては月給とボーナス3~4倍になったような錯覚に陥るのではないか?まして冬の寒さもないし治安が比較的良く食べ物は文句無く美味い、それに日本製品や日本食レストランも溢れているので日本と同じ感覚での生活も可能だ。ここKLでの生活環境はステレオタイプな日本のサラリーマン家庭生活と比べると非常に恵まれているのである。ある本で読んだ受け売りだが世界中のいろいろな国に赴任経験のある商社マンが老後に暮らしたい国としてマレーシアを選ぶケースが多いらしい。でも、本当にマレーシアってそんなに良い国なのだろうか?視点を変えていえば、運転は乱暴で食い物屋台は不潔だし年中暑く季節感が無いこの国のどこに元在住者は後ろ髪を引かれるのだろうか?その辺と今の日本の現状を比較していくと現代日本人が感じているある種の閉塞感の原因のようなものが明確になっていくのではないかと思う。
Karel van Wolfrenの「The False Realities Of A Politicized Society」という本がある、翻訳ソフトにかると「政治化された社会の間違った現実」と出てくるが私は「人間を幸福にしない日本というシステム」という邦題が非常に気に入っている。以前ベストセラーになったので読んだことのある方も多いと思うがマジメに読むと結構ショッキングなことが書いてある。本来社会的政治的に言論の中核を構成すべき層の一般的な日本のサラリーマンは一部の支配層(官僚や財界)から盲目的に毎日クタクタになるまで働かされて社会活動や家族生活まで犠牲にさせられている。そして支配層に対する疑問を持ったり政治活動などの市民としての行動の自由を見えないルールや慣習で奪われているといった内容のものである。 確かに日本のビジネスマン(特に大企業に勤める人達)の長い労働時間は尋常ではないところがある。実際どれだけの効率で経営に寄与しているかは別問題として、あれだけ働いたら他の事をする気力はなくなるだろうと思ってしまう。私も仕事で日本の顧客に出向いて打ち合わせをしたり作業をすることがあるが、自宅に居る時間より会社に居る時間のほうが長いのではないかと思う人はかなりいる。(そんこと当たり前だと思っている人も結構いるのではないか?)時短の必要性が叫ばれているが定時でスパッと帰る勇気(!?)のある者はあまりいないので、総務セクションが「定時退社日」といったノー残業デーを設けている。しかしその日の夕刻は終業のベルがなると居酒屋直行で酒を酌み交わしながら仕事仲間と取り組んでいるプロジェクトの話や上司への不満などを吐き出し、結局深夜に寝る為だけの遠いマイホームに帰ることになってしまうなんてこともよくある話だ。(驚いたことに個人主義の現代っ子層に属する若者までが入社後見事にそのような生活に染まって行くのは興味深い事実だ。)こういった家庭の一番の犠牲者は主婦だと先の本でも書いているが、本来の意味の家族というユニットが単なる経済的便宜上共同生活者になってしまっているといえば言い過ぎだろうか。
一方マレーシアでの邦人ビジネスマンの暮らしぶりはどうだろうか。通勤は“満員電車で2時間”なんて人は皆無だと思う、現地法人の社長クラスだと運転手付大型車が毎朝コンドミニアムの下で待っているし、一番若手でも会社から与えられた社用車での通勤だ。もちろん激しい交通渋滞にはまることもあるが朝の中央線や千代田線に比べたら車の中はVIP席のようなものだ。会社に到着すれば超巨大企業を除きほぼ全員が部下の居る管理職である。それもトップつまり社長との距離が近くお互い協力して現地人を使い生産性を上げる立場にいる。その為社内派閥の狭間を徘徊するようなことはあまりない(と思う)。勤務時間に関しても長い時間残業をするような風習は現地人には無いので部下は定刻になればサッサと帰宅する。管理職だって自分の仕事が終われば他人を気にせず帰ることが出来る。現地人部下を毎日居酒屋に誘って上司風を吹かしたりするとも無いし出来ない。(私の場合、そんなことはしてはいけないと思っていた為“たまには日本式に飲み屋に連れてってくれ!”と言われる始末だ)また、日本本社を始めシンガポールやタイ等の近隣海外への出張は結構多く毎日オフィスにいるよりも気分転換になる。要は、無駄な体力の浪費(通勤地獄,過度の付合酒,ダラダラ残業)や理不尽な人間関係を強要されず自分の時間をコントロールし易いのだ。自分で時間をコントロール出来ると“やらされてる”、“管理されている”という感覚が薄くなる。同じ仕事でもやらされる場合より自主的にやる場合のほうが能率が数倍良いとある著名なコンサルタントが言っていたがこの差は大きい。また、体力的、時間的に余裕が出てくると家族や地域に向き合う姿勢も前向きになるものだ。勿論、現地人を雇用して使うということは簡単なことではなくストレスも多いが、やりがいのある仕事でもあるのでストレスの質が違うのだ。
さて、個人として社会人として充実している生活(人生)だと思えるのはどういうものを手に入れたときであろうか。「お金に余裕がありセカセカしないこと」、「家族とのふれあいが多くもてる」、「自分の為に使える時間が多い」、「非日常的なことが適度にあり変化に富む」,「数多い出会いがある」、「興味を共有できる友がいる」、「知的で生産的である」、「誰もが簡単に出来ることでない事を身につける」等々人によって価値観が違うのでいろいろあるであろう。しかし、今挙げたようなことをある程度満足している贅沢な人が、世界経済をリードしていると自負する日本の一般的ビジネスマンのなかにどのくらい居るであろうか。少なくとも私の知っている限りでは時間的余裕がある人はあまり多いとは言えない。本来の[豊かな生活をしたい]→[一生懸命働く]→[余裕が出来る]というサイクルが[物価が高い]→[生活が苦しい]→[遮二無二働く]→[豊かさが無くなる]となっているのが現状のような気がする。
長くなるので結論を急ごう。冒頭の「日本に帰りたくない!」という人が多いということはマレーシアに来てあることに気付いてしまったからなのだ。それは日本の「中流意識」というやつが実は大嘘であるということだ。長時間労働や少ない可処分所得、心身ともに疲れ果ててまでキープしている「中流の生活」が“あれだったの?”と思うようになってしまったのだ。もちろんマレーシアに暮らす外国人駐在員はこの国では別格なのだが、日本の外から日本を見る機会に恵まれると、先進国であり続ける為に多大な人的犠牲を強要されている一般サラリーマンの姿がはっきりと浮き彫りになってしまうのだ。暮らしを豊かにする製品を作るために自分達の暮らしを犠牲にしているのが先進国日本で、その恩恵を受けて豊かになりつつあるのが後を行くマレーシアという構図のような気がしてならない。(貧困層等の問題とか全く無視した意見で申し訳無いが...)4月には新しい駐在員が来て「ちょっと挨拶に行きたいのですが...」などといって営業電話がかかって来るようになったが、日本に帰国する友人達は十数年後に、「自分は大金こそ残せなかったが定年まで立派に勤め上げ郊外に小さな家も建てたし子供も成人させた。老後は夫婦で共通の趣味でも見つけて水入らず年金で慎ましく生きていこう。」と“中流”だった自分の人生を納得させることが出来るだろうか、ちょっと心配だ。
(№16.ハロー・グッドバイ おわり)