「運転の練習日をアレンジするので、日本から帰って来たら電話しなさい。」日本出張へ出発する前々日に自動車教習所のおばちゃんにそう言われていたので。電話しました。「28日はどうですか?~~~ではAM10:00にお宅のコンドミニアムのガードハウスの前で待ってなさい。」 「OKラー。」と私。カクシテ、第一回目の実地運転練習の予定が決められました。
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日本で車とは無縁の生活をしていた私が車社会のここマレーシアに来て、「車がないと不便だ、運転免許を取らねば!」と一大決心をしてこの自動車教習所に通い出したのは99年4月のある日のことでした。とりあえずパンフレットだけでも貰ってこようと、同じコンドミニアムに住む日本人に教えてもらった"○△□ドライビングスクール"という教習所らしき所を尋ねました。見事に窮屈そうな事務所でチャイニーズのおばちゃんから判りづらいマレーシア英語で説明を受けました。講習~免許取得まで総経費が日本円で2~3万円だったので即決で申込金を払いパンフレットのようなものを貰いました。パスポートさえ持参していれば当日に授業を受けることも出来たのですが、労働ビザの申請でイミグレーションに預けていたので返却され次第受講させてもらうように約束して帰りました。後で気付いたのですが、貰ったパンフレットのようなものが実は教科書で後にも先にも本はそれしか使いませんでした。うちの奥さんが日本で来マ直前に運転免許を取った時は総経費30万弱を支払い、分厚い教科書セットのようなものを購入させられた記憶があるので拍子抜けでした。
数日後返却されたパスポートを持って「ディフェンシブ・ドライビング・コース」という5時間の授業を受けに再び教習所らしき場所に足を踏み入れました。前回来た時も「狭い事務所だな」と思いながらOHPとか置いてあるのを見て嫌な予感がしていたのですが、実はそこは講習を受ける教室でもあったのです。講師はMr.Annという中国式屋台を引かせてペナンラクサでも作らせたら似合いそうな爺さんでした。「私は運転暦43年でここらの外交官や大学教授は皆私の教え子です、だから私が一番偉いのです。」などと真顔でのたまう中華思想の持ち主でした。しかし、講義が進むに従って"屋台の爺さん"だったMr.Annがユーモアもあり頭も斬れる人物に見えて来たのは不思議です。きっと、本当の偉人か上モノのイカサマ師のどちらかでしょうが、英語の講義について行くだけでも大変だったので結局判別出来ず終いでした。講義自体は模擬試験などもあり結構充実した(公称)5時間で私はクタクタになってしまいました。帰り道、教室近くの屋台でスターフルーツジュースを前に暫し呆然状態でした。
教室での講義を受けてから約一週間後の5月6日、早くも学科試験を受けることになりました。Mr.Annの教え子達がドライビングスクールに集合し、スクールの講師達が運転する車に分乗して学科試験が行われる道路交通局(JPJ)に向かいました。約40分のドライブの後JPJでかなりの時間を待たなければなりませんでした。その間、次々と他のドライビングスクールからも車がやってきて沢山の受験生を下ろしていきます。自然と各スクール毎にかたまり話をするようになり、不思議と話しているうちに親近感が沸き始め、他のスクールの受験生とは一線を画すようになってきました。さながら「教習所対抗合格者多いもん勝ち競争」みたいな雰囲気に包まれだし、そうなると俄然チームワークが良くなり「みんなで合格しましょうね~」なんて40歳直前だった私にはこそばゆい感覚が妙に気持ち良かったのを覚えています。地域がら外国人の多いバングサ地区のMr.Annの教え子軍団はマレー人はともかく、中国人、インド人、ベトナム人、南アフリカ人、そして日本代表の私と国際色ではマレー人ばかりの他スクールと比べて頭一つリードといった感じでした。
暫くすると濃紺の制服を来た教官らしき人が来てマレー語で何か言いました。皆がゾロゾロと教室に入っていくのを見て後を追いながら、その時始めて外国人の多い自分達が不利な立場にいることを悟ったのです。しかし、マレー語という障壁に現実を思い知らされ縮みかけていた連帯意識を救ったのは地元のマルチリンガルレディ達でした。私ら外国人がキョトンとしていると、教官の発する一字一句を逃さず同時通訳してくれるではありませんか。おまけに当時目が悪いのに眼鏡も持っていなかった私のために視力検査用のカンニングシート作成まで手伝ってもらいました。彼女達だって試験は初めてだったろうに、本当にありがたく思いました。美しい国際協力のもと圧倒的強さで我チームは多数の合格者を出しました。ただ、同時通訳をしてくれたマレー少女のひとりが不合格となってしまったのが残念でした。そのあと午後から始まるマレー語の機械関連講義に備えて皆で教習所内にある屋台で輪になって食事をしたときも、ひとり悔しそうな顔をしているのが私にはたまりませんでした。
午後に始まった機械関連の講義はやはり全てマレー語でした。しかし、これは6時間受講しさえすればOKといういい加減なものでMr.Annは前回の講習でも「これでは意味が無い!」と怒っていました。教室の講義が暫く続き休憩をはさみ屋外へ、カンチル(ダイハツミラの現地バージョン)を使いボンネットを開けパーツの説明やらジャッキの使い方などをやっていると、後ろからMr.Annがこっそり来て何か言いました。よく聞いてみると「帰ろう!」と言っているではありませんか。「帰る?アンタの立場でそんなこと言っていいのかよ?」と心で思いつつも「あと3時間立ちっぱなしは辛いなぁ」と思っていたので
"渡りに船"で全員脱走に合意しJPJを後にしました。後で聞いた話によると、受講した証拠に講義終了後私達がサインする欄に「こんなに人数が多いのに皆が後でサインすると混むではないか!」と難癖をつけて事前サインを認めさせてしまったのだそうです。やっぱりMr.Annは大物でした。
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~~~話は実地運転練習日に戻ります~~~
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当日、おばちゃんに言われた通りコンドミニアムの前で待っていると、マレーシアでは画期的なことですが僅か2分遅れで「○△□Driving ~」と書かれた小型車が横付けされました。「ハロー、カムイン、カムイン」と中国系のおっさんがやって来て私を助手席に乗せて出発しました。「車の運転したことあるかい。」、「...いや、生まれて始めてです。」と私。「日本で運転免許取るのって高いらしいね。」、「RM9,000くらいするんじゃないですか」などと緊張しながらも話をしているうちに到着したのが、なんとそこらのア・キ・チ(空地)!でした。運転席に座るのは生まれて初めてと怯える私に、シートの調節、各ペダルの機能、ミラー位置の合わせ範囲などを木製オリジナルこん棒で指しながら説明してくれました。その空地でターンの練習をして4回か5回目のターンでやっと調子が出てきた時に「今度は逆に回って、よしよし、そこを下がって、ゆっくりストレートに行って。」言われるままに運転していたら、な、なっ、なんと既に一般道を走っているではないですか。日本の教習所みたいに箱庭のような練習コースを何日もかけて準備するものだと思っていた私ですが、呆気なく初日で公道デビューをしてしまいました。そのあとはヒヤヒヤの連続で2回のエンストをし、セカンドギアまでの時速にして40km/hを初めて自分の運転で体験しました。興奮状態の私を尻目に助手席で口笛吹いてスケジュール表とかをチェックしている教官はバカなのか私を信頼しているのか"超お気楽男"でした。「クラッチの使い方以外はGooよ!」練習が終りコンドミニアムの前まで下ろされた私の手は汗でびっしょりでした。
その日、39歳にして初めて車を運転しました。天国のご先祖様が近くに感じた日でした。
(№3.体験実話「天国に一番近い教習所」 おわり)