№74. ライブ・ライブ・ライブ(1)


今回は、趣味の話を書こうと思う。 趣味と云えば、「ゴルフ、やらないのですか?」と、ホントに、よく訊かれる。 それも、ほとんどは、「当地でビジネスやってるのに、接待ゴルフとかないの?」とか、「ゴルフやらないで、週末は退屈じゃないの?」とか、 「マレーシアは、日本と比べてプレイ代が安いので、やらないと損だよ!」といったニュアンスを含んだ質問だ。 中には、「ゴルフは組織人の嗜み、会社のコンペを断るなんて言語道断」的な考え方の人も居たりして、 会員権はおろか、クラブ一本持っていない私は、何故か、叱られているような気分になってしまうときもある。 まあ、私も、「ビジネスやるなら、酒は飲めないより、飲めた方が得だろがぁ」などと、 似たようなメンタリティで考えている場合もあるので、あまり他人のことを言えた義理ではない。 まあ、ゴルフに関して云えば、私は、好きでも、嫌いでもないから、やらないだけで、日頃、趣味として乗馬競技や、大正琴の演奏をやらないのと同じ次元なのだ。 しかし、大多数の日本のビジネスパーソンにとって、ゴルフはスペシャルな“団体競技”のようだ。 社内で、あるランクまで昇進すると、好き嫌い関係なく、自ら、ジワジワと、半強制的に、自分の“趣味”として位置付けてゆくのが、デキル男の経験知だ。 これは、ゴルフ自体が好きな人には良いが、好きでない人や、朝寝坊な人にとっては、大変迷惑な暗黙知だ。 本当は、「休日ぐらい、仕事のこと忘れて、ゆっくり休ませてくれ!」と声を大にして叫びたいところを、 グッと堪えて、二日酔い気味(前夜は接待)の土曜の朝、いつもより早起きして、出張者をピックアップし、コースに車を走らせるのが、 海外駐在員に課せられた重要なミッション(皮肉です)だからだ。 趣味が仕事がらみになってしまうと、もはや趣味とは言えないが、ゴルフを通して人脈が広がり、仕事へも良い影響が出ているのであれば、私などがとやかく言うことではない。


趣味の音楽の話を書こうとしてたのだった。 どうも、ゴルフとか、ネクタイとか、内部統制、といった半強制的な匂いのするものに対しては、ついつい難癖をつけたくなってしまうのが、私の悪い癖だ。 10代前半から、ロックに魅せられ、ギターを手にし、知命の年齢を超えた今でも、自称、“永遠のロック少年”と公言して憚らない人間なので、 サラリーマンの方々には申し訳ないが、私の中ではアンチ体制(組織)体質は、基本中の基本なのである。 それはさておき、パンク・ロックをリアルタイムで体験し、プログレやハードに心酔、そして、"Black is Beautiful"を、合言葉に、数々の名演を“生”で体験してきた者の趣味が 【音楽】でなくてなんであろうか。 偶然だが、最近、KLで、立て続けに、音楽(特にロック)にかなり詳しい日本人達に遭遇した。 相手が、これまで、どういう音を聴いて来たかを探り合いながら、接点を見付ける。 そして、深いところで話が合うと、時間を忘れて話し込んでしまうのが、この趣味の醍醐味だ。 そこには年齢差も、社会的地位も関係ない。 ただただ、時代背景と、自分の過去を、曲やアーティストとシンクロさせながら共感し合う。 たとえ、話相手が初対面であっても、昔からの友人であったような気分になってしまうのも不思議なことだ。 今回から数回は、そんな素敵な出会いが、もっともっとあるようにと祈りつつ、私の赤面的趣味趣味音楽遍歴を、思い出す限り書いてみたいと思う。 この話題だと、長~くなりそうな予感がするけど、絶対に“全て”は語り尽せないだろうとも思う。 まあ、書きはじめてみよう。


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[父母が聴いてた昭和の歌謡曲]
特に意識していたワケではないが、幼稚園や学校で習った歌以外では、 やはり、テレビで両親が聴いていた流行歌(歌謡曲)が原体験のような気がする。 その頃は、グループサウンズ(GS)全盛期で、両親は、もっと古いタイプの歌謡曲が好みだったようだが、 私は、タイガースやテンプターズ、そしてオックスの歌は単純に好きだった。 まだ幼すぎてバンド自体にあまり興味は持てなかったけど、 子供心に不思議に思っていたことは、「なんで、大人の歌のテーマは、愛とか恋ばっかりなんだろう?」であった。 そんな私が生まれた年に出来たレコード大賞は、当時、とても権威があるイベントであった。 授賞式のある大晦日は、朝から「今年の大賞は誰だろ?、新人賞は○○だね」などと家族で会話しながら、夕方までには大掃除を終え、きれいになった部屋で、 “レコ大”~“紅白”と続けて観て“ゆく年くる年”で年越しそばを食べるのが、我が家の定番だった記憶がある。 レコード大賞を受賞し、その足で紅白の会場にかけつける売れっ子歌手は、子供心にカッコイイと思っていた。 ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「ブルー・シャトウ」で大賞を射止めた年(1967)は辛うじて記憶にある。 その頃は視聴者サイドの意識の中に、なぜか、本格派歌手(美空ひばりや水原弘など)とGSバンドの間には見えない壁があって 「どんなに人気があろうと、あのチャラチャラしたGSバンドにレコード大賞は出せない」といった、道徳観のようなものがあったように思う。 今考えれば、小学生がよくそんなことを感じていたとも思うが、まだその時代では、バンド=不良という通念はあたりまえのように存在していたのだ。 ブルー・コメッツの受賞が、そんな通念を一気に覆すような事件であったかと言うと、そうでもない。 外見は、どう見てもタイガースなどと違って、ステージ衣装は現代営業マン風だし、 フロントマンの楽器も、サイケデリック模様のギターなどではなく、知的なフルートなんかを手にしている好青年風だ。 やはり、当時の審査基準も、急激なモラルの変化を好まない日本的な“空気”を反映して、相当保守的にならざるを得なかったのであろう。 因みに、元タイガースの沢田研二が「勝手にしやがれ」で対象をとったのは、10年後のこと、 そして、「NHK紅白歌合戦」で指揮をしている三原綱木は、ブルー・コメッツのギタリストだった。 そうそう、GSのギタリストといえば、私が20歳頃に、東京福生の横田基地近くのライブハウスで、 “元ジャガーズのギタリスト”という人とブルーズジャムセッションをしたことがある。 ジャガーズは「君に会いたい」ぐらいしか知らなかったのだが、今、ネットで全盛期の写真を検索してみても、 あの長髪の髭面ギタリストが、どの人なのか皆目分からない。


[初めてのレコード購入]
テレビの歌謡番組(当時は沢山あった!)を卒業し、ラジオにハマる一歩手前で、 少ないお小遣いをはたいてレコードを買い、なぜか家にあったステレオでシングル盤やLPを聴くようになった。 かなり赤面モノなので、具体的な曲名は挙げないが、同世代の“花の中三トリオ”とか“新御三家”とか、その頃、一世を風靡していた人達のレコードである。 何を買ったかはともかく、やっと“タダ乗り状態”から、いち消費者として音楽産業に貢献するようになったのだから、偉大なる一歩である (その時代に興味のあるモノ好きな方は、先のキーワードで、勝手にググってください)。 そんな時代の思い出で、なぜか鮮明に覚えていることが二つある。 ひとつは、姉がビートルズの「Yesterday」のシングル盤を友達から借りてきて、文字通りレコードが擦り切れるまで聴いてしまい、後で親が弁償したこと。 そして、ふたつめは、ラジオ番組のプレゼントで森昌子ファーストアルバムが当たったことだ。 本当は、“明星”と“平凡”を読んでたとか、○○のポスターを部屋に貼ってたとか、 もっと色々あるのだけど、人前でロックやブルーズのギターをクールに弾きたい手前、そういう過去は無かったことにしたいもんだ。。。


[嬉し恥ずかし洋楽デビュー]
ティーンエイジャーとなり、当然のようにラジオ(AM)を聴くようになった。 米軍のFEN(Far East Network)も受信出来たけど、ラジオデビュー当時は、TBS、文化放送、ニッポン放送が中心だった。 若者向けの番組では、アメリカやイギリスで流行っているPopsなどが毎日リクエストされ聴くことが出来たが、 最初は“洋楽=別世界”であったので、自分とはかけ離れた存在のものとしか思えなかった。 そんななか、勇気を出して、初めて買った洋楽レコードは、Carpentersの「Sing」だった。 当時、シングル盤は400円か500円だったと思うが、もちろん10代前半の子供には、TAMIYAのプラモデルと同様、まだ沢山買えるようなモノではなかった。 しかし、その時は、値段の問題ではなく、妙にレコード屋さんで緊張していた。 なにせ“洋楽=別世界”の少年が、自ら壁を越えて、新しい世界への一歩を踏み出す瞬間なのである(ちょっとオーバーか?)。 洋楽のレコードなんて買っているところを友達に見られたら、「気取ってんじゃね~よ!」とイジメられるんじゃないか、 店員に「子供のクセに洋楽分かるの?」といった視線を受けるのではないか、などと、妄想は膨らむばかりで、 なかなかカウンターに行くことが出来なかった記憶がある。 今でも、あの“ランララ、ララ~ラ♪”と「Sing」のメロディを聴くたびに、あのときの緊張感を思い出す。 B面の「ア・デイ・ウィズアウト・ユー」とともに、自分だけの、ちょっと情けない、思い出なのである。


[ロックンロール体験]
赤面洋楽デビューを果たしてからは、ラジオでPaul Mccartney & Wings, Elton John, T-Rexなどが怒涛のように耳に入って来た。 今思えば、これらが、自分の一生の伴侶となるROCKとの出会いの始まりでだった。 次から次と新しいヒット曲が放送される毎日。 乾いたスポンジ状態の少年が、水浸しの音楽中毒初期症状に陥るには、さほど時間がかからなかった。 まさに、清志郎の「トランジスタ・ラジオ」の世界だ。 レコード購入予算が極端に少ないため、「週間FM」、「FM Fun」といったFM情報誌を片手に、FM放送のエアチェックもはじめた。 因みに、エアチェックとは、FM情報誌に出ている番組予定表で狙いを定めておいて、放送をテープレコーダへ録音してしまうことだ。 世の中に、レンタルレコード屋なるものが出現するまでは、FMエアチェックこそが、お小遣いの少ない音楽キッズ達の貴重な音源であったのだ。 そんな受け身体質のリスナー生活に“喝”を入れる事件が、1972年10月8日の日曜日に起こった。 何気なく見ていたフジテレビの“リブ・ヤング”という番組に、まったく無名だった“キャロル(永ちゃんのバンドね)”が出演し業界関係者へ衝撃を放ったのだ。 リバプール時代のビートルズをモチーフに、革ジャン、リーゼント、そして、パンチのきいたロックンロール。 それは、内田裕也もミッキー・カーチスも即断でプロデュースを申し出たほどのインパクトであった。 そして、今ではアタリマエになった、英語混じりの歌詞と巻舌ボーカルは、日本の芸能関係者界のみならず、若干13才のロック入門者にも強い影響を与えたのだ。 しかし、ここで主張しておきたいことが、ひとつある。 確かに、キャロルは強烈なインパクトではあったが、私の場合は、純粋に音楽的な部分のみの衝撃であった。 つまり、あの暴走族的イメージには、自分の生活感はまったく影響を受けてないのだ。 大きなバイクに乗り、タバコをふかし、「永ちゃんサイコー!」などと、脳天気に恭順の意を示していたツッパリ少年達とは、一線を画しておきたい。 キャロル~クールス~横浜銀蝿といった、ツッパリ音楽の系譜は尊重はするが、この部分だけしか聴かない人達とお友達になるのは、年齢的にも趣味的にもチト辛い。


[フォーク全盛時代~末期]
キャロルのファースト・アルバム(LP)と、エレキ・ギター、どちらを先に買ったか忘れてしまったが、おそらくほぼ同時期だと思う。 LPの方は、A面がオリジナル曲集、そして、B面はロックンロールのスタンダード集だった。 私の世代では、このB面でロックンロールの古典に触れ、初期のビートルズやチャックベリーへと遡って行った御仁も多い筈だ。 私もモチロンその一人だが、私は、聴くだけでは飽き足らず、“少年マガジン”や“少年サンデー”などのマンガ雑誌の裏表紙に出ている通販で、 “TOMSON”とかいう通販限定の激安ギターを、親にねだって買ってもらい、秘かに練習を開始したのだった。 しかし、最初はチューニングの仕方も、ギターコードも知らぬため、「Guts」や「新譜ジャーナル」、そして「YOUNG GUITAR」といった、 所謂フォーク系の雑誌にもお世話になった。 初心者最大の難関の和音“F”を、アスベルガー的集中力でクリアーしたが、チューリップの「心の旅」はジャカジャカ弾けても、 キャロルのようなノリノリビートのロックンロールは、未だコツが掴めずにいた。 一方、フォーク系雑誌を読むようになると、新譜のレビューなどを見て、色々と聴いてみたいフォークのアルバムも増えてくるものである。 当時はフォークブームでもあったので、井上陽水やオフコースなどのライブ・アルバムなども買った記憶がある。 そして、運が良いことに、クラスメートのお姉さんが「花のフォークタウン」という、文化放送の公開録音番組のスポンサーであるアメリカ屋靴店に勤めていた関係で、 無料のチケットを毎回簡単に手に入れることが出来たのだ。 数が多くて、全出演アーチストを列挙することはしないが、 アリス、チューリップ、オフコース(デュオ時代)などのメジャー系から、遠藤賢司、西岡恭蔵、斉藤哲夫、高田渡といったテレビでは観れない人達まで、 ホントに、この公開録音コンサートにはお世話になった。 色々、印象深いことも多い。 「バス通り」でデビューしたが、まだ無名に近かった甲斐バンドが、初めて東京で演奏したときにも会場(厚生年金会館)に居た。 「初の東京遠征に、親からもらったお守りが、実は安産のお守りだった」と、あの、甲斐よしひろが笑いをとっていたのが懐かしい。 同じステージで“りんどん”という3ピースのバンドも無名だったが、フライングVを弾いていたギタリストが印象に残った。 20年くらい後で、石橋凌とARBを結成したギタリスト田中一郎がその人だったと分かり、かなり納得した。 恐ろしいこともあった。 吉川忠英がデイブ・メイソンのようなアレンジで演奏中だったと思うが、突然、引きつった顔のアナウンサーと谷村新司がステージに出てきて、 「只今、爆破予告電話がありました、これから避難して頂きます」と言われたときはビックリした。 結果的には、単なる嫌がらせであったのだが、避難のため会場の読売ホールを出るまで、生きた心地がしなかった。


[初めてのバンド]
10代も半ばにさしかかる頃には、既に、「赤盤」&「青盤」をバイブルとする、後追いビートルズ教の洗礼も受けていてたので、 「バンドを組んで人前で演奏し、ビートルズみたいに女の子にモテたい」という気持ちは強くなっていた。 どこでも、似たようなことを考える奴は居るもので、自然発生的に、同じような音楽に目覚めたクラスメート達と、だれかの家に集まり、 ギターの練習をするようにもなっていた。 皆が皆、基本は「カッコイイところを見せたい」なので、実力はともかく、とにかくライブ(と云うより発表会)の場を求めていたことは言うまでもない。 だが、通販で買ってもらったギターは、入門者の練習用にこそなれ、人前で演奏出来るような代物ではなかった。 チューニングは合わぬし、見た目もサイテー、これじゃ、カッコ悪いということで、どういう経緯かは忘れたが、結局、次のギターも同じ通販で買った。 買ったのは、黒のレスポール(もどき)。 通販なので、数日待たされたが、ギターが届き、箱を開けてみると、意外にもしっかりとした造りのレスポール(もどき)だったので嬉しかった。 このギターを持って、人生初のライブをやったのは、中学校の体育館、イキナリの(プチ)アリーナデビューである(笑)。 これまた、どういう経緯で、どんな交渉をして、演奏会にこぎつけたかは忘れてしまったが、理解のある教頭先生が許可を出してくれたことは確かだ。 ドラム(小太鼓)は音楽室から、ベースはメンバーのお兄さんが持っていたものを貸してもらった筈だ。 ギターアンプは無かったので、テープレコーダーとステレオのスピーカーで代用した。 演奏した曲は、当時大ヒットしていたチューリップの「心の旅」、ビートルズの「ゲット・バック」、そして、ジュリーの「気になるおまえ」。 これ以外の曲は全く記憶にないので、おそらく3曲しかやらなかったのかも知れない。 ただ、演奏さえおぼつかない状態なのに、ステージ幕開け時の立ち位置とか、アクションとかを決めて、カッコつけようとしていたことは良く憶えている。 緊張しながらも、ステージから客席を眺めると、遠巻きに女子生徒と一緒に観ていた教頭先生の表情が、演奏が始まると笑顔になり、そのうち手拍子まで打ちだした。 内容や反響はともかく、この時初めて、人前で演奏する楽しみを知ってしまったことは確かだ。 話は飛ぶが、つい最近、高校生のときに組んだビートルズのコピーバンドをずっと継続している、という57才の日本人に会う機会があった。 KLでも結成40年という御爺さんバンドを知っているが、この人達も結成当時の曲をレパートリーにしているようだ。 どちらのバンドも、長年活動を維持していることは想像以上に物凄いことだが、私にはちょっと無理だ。 なぜなら、自分は音楽に関しては、とても“飽きっぽい”からだ。 あれも演奏してみたい、これもトライしてみたい、と、次から次へと気持ちが動くので、 メンバーがずっと一緒なのは全然問題ないが、ジャンルやイメージが固定されるのは、私には向かないと思っている。 初ステージから約40年過ぎた今でもそうだが、まだ3曲しかレパートリーがない頃から、「もっと、意外性のあるショーにしたい!」 などと生意気なことを考えていた、頭でっかちな初心者だったのだ。


続きは次回。まだまだ、ダラダラと続きます。


(№74. ライブ・ライブ・ライブ(1) おわり)


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