№46.壊れやすい複雑系


最近、身近な生活用品等“モノ”が立て続けに壊れてしまい不便にしている。発端は自宅のノートPC、既に現役(仕事では使ってない)を退いたとはいえ購入してから2年程度のWindows_XP機だ。続いて携帯電話の調子がおかしくなりはじめたかと思ったら、衛星放送の受像機の電源部分がイカレたらしく完全に観ることが出来なくなった。そうこうしているうちに電話回線が不通になり、連動してADSLのブロードバンドも使えなくなってしまった。万一の緊急連絡が入るとマズイので近所のコーヒー屋に行き甘ったるいコーヒーを飲みながらワイアレスでネットに繋ぐ不便さだ。シロモノではクーラーと洗濯機が音を上げ出したかと思うと、低すぎる水圧を上げるために取り付けたポンプのせいで給水パイプから水が漏れ出した。雑音が激しくなったE・ギターは奮発して新しいのを買ったから良いが、会社に来れば来たでHUB/スイッチが作動しなくなるわUPSが機能しないわ、悪いときには悪いことが重なるものである。幸いにしてこれらの現象では致命的な損害を何一つ被らなかったので良いが、普段当たり前のように使っている“モノ”が壊れて使用不可となると不便なものだ。まして、品質が日本製品と比べるとイマイチだと分かっているマレーシア製品が立て続けに壊れたりすると、自分のイイカゲンさを棚に上げても『まったく、この国の製品はどうなってんだ!!』と毒付いたりもしたくなるのものだ。しかし、洗濯機が壊れたくらいなら大したことはないが、最近のニュースを見ていると生命や財産を脅かすような事故が機械の故障やソフトウェアのミスで多々発生している。人間の作ったものは完璧でないという観点で施されている何重ものフェイルセーフだってそもそもは人間が作っているわけだし、あまりにも複雑化してしまった機械やソフトウェアを人間が(やまして組織であっても)俯瞰することはかなり難しいところに来ているのではないだろうか。そんな観点から商売柄私が常日頃から漠として抱いている不安を書いてみたいと思う。


“大型旅客機の部品点数は600万個もある”とあるサイトに書いてあった。それらパーツやら、電気系統だ、油圧系統だ、ソフトウェアだと有形無形の製品の集合体で数百人の命を乗せて最高高度13,700mもの上空を運んでいる。圧力隔壁の補強を怠るだけで520余名の命を奪う影響度を考えると非常に深刻な複雑系だ。 東京証券取引所のコンピュータシステムはクリックひとつで400億円の損失が出た。ボロ儲けした人もいたようだが、損した人や被害にあった会社にとってはコンピュータプログラムは通常目に見えない分だけ厄介な複雑系だ。 小心者の私などそんな大きな社会的責任を考えると、航空会社のCEOや東京証券取引所の社長などになったら夜も心配で眠れず、胃が溶けてしまうのではないかと思う。(そういう人は偉くなれないのだろうけど・・・)私だったら就任前にサッサと辞表を出してLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability)といった流行の生活スタイルに逃避してしまうかも知れない。 しかし、そうした複雑系を管理運用している会社であっても、実際に何か重大な事故が起きたときに経営責任者は何が出来るのだろうか、もちろん、事前に事故防止対策の体制作りや啓蒙は出来ても、隔壁の修理を担当した製造元の担当者のミスまでは見抜けなかったろうし、大きな組織にプログラムのチェック機能まで熟知している経営責任者がいるとは思えない。 どんなに経営陣が強権発動しようが管理体制を強化しようが、強度の不足した部品は壊れ、抑止ロジックの抜けたプログラムは暴走を許してしまうのだ。(耐震強度偽装問題の例を見ればわかるが、管理体制を幾重にも強化すれば完璧になるというものでなく、形骸化していくことが多いのだ。)


じゃあ、何をどうすればいいのか、まずは問題の本質を見極めなければならない。世界一の技術や厳格な管理体制システムをもってしても生まれてしまう事故(トラブル)の原因の本質は何か?と問われれば、私は“仕事をさせる側が与える条件”と“仕事をする側の人間の職業意識”だと答えたい。


モノ作りや運用業務、そして開発プロジェクト等は様々な制約との戦いだ。限られた予算と期間、厳しい検査管理体制、そして結果としての利潤追求。たとえ個人的に納得出来るまで仕事がしたくとも企業の論理がそれを許さない場合が多い。その反面瑕疵責任は重く問われ失敗は命取りとなる。『そこを上手くやるのが管理術ではないのか!』と言われればその通り、話はここで終わってしまう。ただよく考えてみると、少ない予算や短い期間(時間)、そして無駄な検査管理体制は何の為に誰が決めたものなのかを問われることがあまり無いのが不思議といえば不思議だ。本当にその予算は適正か?(資金がないのに無理に押し付けていないか?)、期間(時間)は妥当か?(参加要員の多大なる苦労を前提としてないか?)、検査管理体制は機能しているのか?(管理のための管理、単なる責任転嫁に終わってないか?)はじめから失敗要因が基本条件となっている仕事を成功させるのは相当な犠牲が必要だ。“仕事をさせる側が与える条件”というのは、“仕事をする側”からみると絶対的であることが多い。要は立場上逆らえないのだ。以前ここで[そろそろ真面目に経済発展と自然環境を秤にかけるときではないか。(№37. 草の根環境破壊)]などとエラそうに書いたが、賛同してくれる友人であっても自分の会社の経営者に向かって『こんな環境破壊につながるモノ作りはやめましょうよ、社長!』などと言えば翌日から棘の日々が待っているだけだ。しかし、本当に良い結果を望むのであれば仕事をさせる側の深い理解と全面協力が不可欠な筈だ。


一方“仕事をする側の人間の職業意識”もかなり深刻だ。問題は企業内というより社会の世代交代である。 技術やノウハウは組織やデータベースに蓄積されていくように見えても、実際はそれを応用する生身の人間は40年もすればほぼ全て入れ替わってしまう。産業界では“2007年問題”が卑近な問題ではあるが、もっと恐ろしい問題は、団塊の世代が大量に定年退社することではなくて、急増している正しい倫理観に裏打ちされてない者達が、先達の創ってきた遺産を無秩序に複雑化させ(もしくは理解しないままに)それを利用していくことだ。今年(2005年)前半に発生した鉄道惨事を背景に日経連の奥田会長が『日本人の根底にあった労働規範や倫理観が変わってきたと言わざるを得ない。』的なことを言われていたが、場合によってはお叱りの矛先となるやもしれない世代の私ですらそう感じることがある。もはや日本人=勤勉、はたまた日本=安全といった神話は歴史の教科書にいれてしまったほうが良いようだ。興味本位で芸能人の納付履歴を検索する社会保険庁職員などはたいした悪とも思わないが、運転しながら携帯メールをしている電車の運転手などは事故になればゴメンではすまない。教え子を殺傷する塾の講師のメンタリティは論外としても、無防備なお年寄り達を騙す悪質なリフォーム業者は人間の屑だ。毎日毎日この手の情報に事欠かない日本発のニュースを見ていると、この国の職業意識は“終っている”と思わざるを得ない。


しかし、よく考えてみれば“仕事をさせる側”も様々な制約の中で最大限の効果を期待されていて、上層部や株主に対しての説明責任もある。闇雲に彼等の指導が悪いと責めるのも可哀そうだ。また、生まれた時から複雑系社会システムに放り込まれ不毛な競争を強いられてきた世代の“仕事をする側”に倫理観を問うこと自体が残酷なことなのかも知れない。彼等だって望んでそういう時代に生まれてきたワケではない。ただ言えることは、これ以上物事を複雑化し過ぎると『いつかきっと手に負えなくなってしまいますよ!』ということだ。学力は落ち、倫理観に乏しく、刹那的な世代に引き継ぐには様々なことが複雑になり過ぎているような気がするのは私だけだろうか。複雑なものが複雑に見えているうちに整理するかストップしておくべきだと思うことは進歩を阻む危険思想なのだろうか。


このコラムを書いている最中にも今年二つめの悲惨な鉄道事故が起きた。両ケースのトップは辞任を示唆しているが事故原因はまだ完全究明はされていない。不完全なものを完全だと思い、限界のあるものを無限だと錯覚して接しているととり返しのつかない事故は今後も続くだろう。それ以前の話、電車が定刻通りに走らなくたって良いではないか、強風で運休になったって一日我慢すれば良いではないか。これほどまでに過密なダイヤで鉄道を運行する必要がどこにあるのだろうか。東南アジアの小国で、いつ来るとも分からぬバスを硬いベンチに座ってじっと待っている人達を見ると、何故かホッとしてしまう自分はもはや完全に東京ピープルではない。


(№46.壊れやすい複雑系 おわり)

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