世の中には無駄なものが多い。その“無駄”が他人に迷惑をかけていないうちは一向にかまわないが、税金の無駄遣いや環境破壊のように自分や自分の子孫に厄介が降りかかるような類のものは即刻止めてほしい。産業廃棄物の不法投棄のように法律で規制されているものは法律を厳密に遵守させれば良いが、意外と大きな問題を含んでいるのは我々一般の者が「あたりまえ」と思って行なっていることが実は限りある資源の浪費や環境破壊に確実に加担していると言うことだ。そんな視点から環境破壊問題を書いてみたいと前々から思っていた。とはいえ、「沈黙の春」も「複合汚染」も私の本棚には無く唯一それっぽい「空山」も挫折してしまった環境問題落第生の私が書けることなんてたかが知れている。せいぜい日常生活レベルで環境の為に廃止出来る事を企業因襲の無駄と絡めて怠惰な自分を正当化することぐらいだろうか...。と、そんなことを考えていたら最近KLに出張に来た日本人スタッフが置いていった一冊の薄い本で“やはり真面目に考えないとイケナイ”と思わされてしまった。その本とはセヴァン・カリス=スズキの「あなたが世界を変える日」。彼女〔セヴァン〕が12歳のときにブラジルのリオデジャネイロで行われた国連の地球環境サミットでのスピーチを中心に構成されている地球環境保護を訴える内容の本だ。宣伝用帯の「その言葉を聞いてぼくは涙した(坂本R一)」とか「あなたの中のセヴァンによろしく!(落合K子)」などの歯の浮くような文章は私にとってはちょっと興醒めだったが、内容自体はシンプルだが実に正しいことが書かれていた。簡単に言うと『人間の大人達がお金のためや便利で快適な生活のために毎日働いてモノを作ったりする裏では環境という生き物全体の共有財産を犠牲にしていることが多い。本当に心から子供達の幸せを願うならば、“経済発展のためだからシカタガナイ”とか“大人になればきっと分かる”などと誤魔化さないで、真剣に地球のことを考え行動すべきだ。直し方を知らないものを破壊しつづけるのはもう止めてください。』といった内容だ。 “持続可能性(将来に必要なものを壊さず現在の必要を満たす)”という言葉も初めて知った。 真剣に受け止めなければ大変なことになってしまうと私も思っているが、実のところ、この手の本を読んだ後の私の典型的サイクルは〔感動した〕→〔何か始めなければ〕→〔何したら良いか分からない〕→〔時間が経つ〕→〔感動薄れる〕→〔結局実質何も変わらない〕といった感じだ。しかし、こんな怠惰な大人には彼女〔セヴァン〕の声は届かないのかと失望されるのも悔しいので、やはり日頃考えていること、一部実践していることを気恥ずかしいが書いてみることにした。しかし、どれも一般的には自分だけの意思で実践するのは無理のあることばかり、企業トップの決断やお役所の指導・規制があってこそ実現可能なことである。マレーシア企業のようなユルイ〔失礼!〕ところでは簡単なことでも日本では習慣上難しいこともある。しかし、既成概念にとらわれずに視点を“未来の地球環境、子供達のために何が出来るか”に置きながら身近に改善すべきところを変えて行ければ、もっと実のある環境悪化防止対策が出来るのではないかと思っている。“アホらしい”と思われるも良し、さて、おっさんの“心の中のセヴァン”、読んでくれている方はどう思われるだろうか。
【夏のスーツ姿】
今年(2003年)のように冷夏は例外としても東京の夏はかなり暑い。常夏のマレーシアは一年中暑いがヒート・アイランドTokioの夏はそれ以上の暑さで、焼けたアスファルトやクーラーの室外機が熱気を増幅しているような異常さだ。赤道直下の国より気温が高いなか暑苦しいネクタイにスーツ姿で電車に乗りこんで来て扇子でパタパタやりながら“冷房が弱い”などと言っている人を見ると、「“弱い”のはあんたのオツムじゃないの?」と毒付いてやりたくなるときがある。それにしても一般的に会社勤めしている人は何故スーツにネクタイなんだろうか?おそらく就業規則には“清潔で他人に不快感を与えない服装”などと書いてある程度だと思う。スーツを着ないと気持ちがパリッとしないと言う年配の方も多いとは思うが、40歳代以下の大多数が社長が許せばスーツなんか着ないでラフな格好で仕事したいと実は思っているのだ。
我社(マレーシアのCSLも東京のCSSも)はかなり以前から服装は自由で、客先に出向くとき以外は短パンとTシャツだってOKである。今となってはソフトウェア関連の会社では珍しくも無いが、東京でこれをはじめた当初は“朝、通勤で家を出る時に隣の人に失業したと思われるかも知れない”なんて心配するスタッフも居たぐらいだ。何故服装を完全自由化したか?理由は簡単“夏は暑苦しいので無駄に体力を消耗し仕事に影響が出るし、社内でのソフト開発にスーツを着る意味も無い”
からだ。家庭内でのメリットは環境問題にも直結している。毎日取り替えるYシャツの洗濯やアイロンも不要となり水質汚染の機会を減らし、電力の浪費も少なくし、且つ奥さんの負担も減って良い事ずくめなのだ。経団連とか経済同友会とか偉い人達のトップダウンでこれを日本のビジネスマン全員に義務づけたら夏の期間のクーラー分も含めてかなりの環境悪化を防げるのではないかと真剣に思っている。紳士服の業界団体から叱られそうだがその分カジュアルウェアでも充実させれば良いではないか。“トップが変われば企業も変わる”騙されたと思って大企業の社長さんには是非試して頂きたいものだ。意外と良い人材が集まって来るとか別の効果もあったりして。
【ダイレクトメール】
私はダイレクトメール(DM)が大嫌いだ。このインターネット時代にこちらの知りたくも無い情報を勝手に紙で送りつけて来るなんて、少なくとも私に対しての宣伝はまったくの逆効果だ。東京の事務所に行く度にカタログや封筒でがゴミ箱がいっぱいになってしまう。開封して内容をチェックしてゴミ箱へ入れる時間も惜しいが、それより送り主はゴミを捨てるのにお金がかかることを理解しているのだろうか。特に多いのが商売柄○経コンピュータ関連の封書だ。雑誌を定期購読するときに登録した住所で沢山のDMが届く。時にはまったく関係なさそうな製品を売る会社からDMが来たことがあった。私はその手の住所登録はその都度わざと異なった部署名を登録していたので宛先に書かれた部署名でどこが名簿の情報源だかすぐ分かるのだ(システム管理課なんてウチみたいな小さな会社には無いのですよ、○経さん!)。DHLとか宅急便の場合は受取側に金銭的負担がかかる場合など“受取拒否”といったことも出来るようなので、是非郵便局も不要なDMに対して“受取拒否権”を設定出来るようにして頂きたいものだ。DM会社の人に怒られそうだが受け取って迷惑な人も居ることを是非理解して頂きたい。(私にとってDMは生ゴミが送られて来るのと大差は無い)
それでも無理やり送って来るDMは送り主をボイコットする。そこまで行けばDMの絶対数は減るだろう。大部分がゴミとなるモノの為にマレーシアなどの森林を伐採するのは自然への冒涜であり、捨てられる運命のモノを人手とガソリンを使って届けさせるなんて“罰ゲーム”をさせているようで虚しい。そこまでして届けた結果得られたのが“潜在顧客からの反感”であったならこれはもう笑い話でしかない。
【義理の年賀状】
超筆不精(電子メールに関しては超マメを自負していますが)の私が毎年東京の事務所に受け取る年賀状は数える程しかない。理由は私が滅多に東京に居ないこともあるが、こちらから殆ど年賀状を出さないからだ。それでも受け取ってしまった葉書の9割方が企業の無味乾燥印刷年賀状である。その中でお年玉付き年賀葉書でないものは即刻ゴミ箱行きの運命だ。電子メールがこれだけ発達したご時世では私にとっての年賀状とは“出さないと失礼になる場合があるので仕方なく書く場合がある”程度のものでしかなくなっている。以前読んだ日垣隆氏の本(偽善系)によると年賀状事業は郵政省にとってボロ儲けだそうだ。『年賀葉書は現在の半値以下でも充分ペイする!』とのヤマト運輸元会長談まで載っていた(実際のコストは5円と著者は試算している)。しかし、私はたとえ年賀葉書が5円になったとしても義理で出す年賀状は不要だと思っている。第一クリスマス前の忙しい時期から「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。2004年 元旦」などとバレバレの嘘を書いたうえに投函期限を気にしながらポストまで出しに行くなんてアホらしいと小学生の頃から思っていた(もちろん親族や旧友との年に一回の情報交換や生存確認を楽しみにされている方々のそれは尊重したうえでの話だが)。
虚礼廃止と経費節減を兼ねて各企業でも年賀状の枚数を減らしていることは知っているが、明確にルールを示さず曖昧なままだとお互い疑心暗鬼になりややこしいので、いっそのこと正月明けには必ず会社で顔を会わせる社員間の虚礼は全面廃止として違反者には、「あなたは環境保護という社の掲げる方針に違反している為に減給です。」といった具合に罰則を科してしまったらどうだろうか。
葉書(紙)の原料と輸送に関わるエネルギーがかなり節約できると思う。郵便小包の赤字を補填出来なくなるので郵政省は困るだろうが、いっそのこと赤字出すくらいだったら競争相手の民間に託してしまえば良い。
【過剰包装、使い捨て品】
日本でお中元が届く、宅配便の住所タグを引き剥がし、紐をハサミで切り、包装紙を破いて箱を開ける。中にはアルミ缶のビールだ。このペットボトル2~3本の量の液体を数人で飲んでしまえば残るのはゴミの山だけ。コンビニでチョコレートを買う、店の袋から出し、ラップされたビニールをとり、箱を開け小分けされた包みを破り、小さな塊を口に入れる。食べてしまえば残るのは綺麗なデザインだがただのゴミのみ。マレーシアでは水道水を飲むことはしないので、一般的日本人駐在員家庭では毎月大量の飲料水を一括購入する場合が多い。1.5リットルのペットボトルが200本、引越しのときのようにダンボール箱がキッチンに山積みされ、消費する都度ペットボトルは分別もされずゴミとなる。それにしても、経済大国の人間はいったい捨てるものにどれだけお金を払っているのだろう。鍋を持って豆腐を買いに行ったり、あたりまえのようにビール瓶や一升瓶のようなリユース品を使っていた頃にはもう戻れないのだろうか。自然と親しむ為のキャンプ会などでも使い捨て容器などで食事させてペットボトルの飲料水を配っている例などみると、どんなに環境意識が高い人でも“便利で安価”なのであれば、それを選択してしまうことは“シカタガナイ”ことなのかとも思ってしまう(環境意識はともかく恥ずかしながら自分も便利な方を選択してしまう傾向にある)。しかし、それが環境にダメージを与え“持続可能性”に反するものであるならば何とかしなければならないだろう。てっとり早い方法は“持続可能性”に反するものは“高く付く”というプライスメカニズムが働く状況にしてしまえばよいのだ。過剰包装などけっこう簡単に排除出来ると思う。その製品を包装する材料のミニマム量を設定し実際使われている包装材料のパーセンテージ(3倍なら300%)に対して課税するような仕組み(環境税:過剰包装税)をつくれば、誰だって無駄に高いものは欲しくないし、作る方も売れないものは困るので自然と簡素な包装になって行くだろう。使い捨て品に関しては環境に与えるダメージに応じて高い税率を課し(環境税:非持続可能性品対象税)世の中に出回りづらくすることが肝心だ。回収や廃棄そして再利用など考える前にゴミの素を生まないことが最も効果的且つ合理的なことは明白だ。
その結果として既存の包装材料や素材の業界が直接影響を受けるだろうが、自然に帰せる包装材やリユース品の開発で生き残りを計らざるを得ないであろう。(この業界の友人も居るので心苦しいが...)
【企業とリサイクル、最後に】
「うちは町内会のリサイクル回収事業に協力する為にビールはアルミ缶のものを飲んでいます。」と誇らしげに真顔で言った友人が居た。こういうのを“本末転倒”と表現すると教わったのはいつのことだろう。“再生紙の名刺”を配布するにあたり社員に古い名刺を暗に破棄させる会社もなかなかシタタカだ。以前から疑問に思っていたのだが、この“リサイクル”って奴自体が環境保護と矛盾するものであり、新しい製品を出し続けないと死んでしまう企業の隠れ蓑になっているのではないだろうか。本来ならリサイクルしなくても良い状態(リユース)こそ環境問題的にはベターではないかと思う。世の中に次々と出る新製品は購買意欲をかきたて、充分機能している既存の製品は色褪せてしまう。その結果、使えるものも不要品となり、不要品はリサイクルして再生するといった馬鹿げた悪循環になっているのだ。どうして、まだ壊れそうも無い愛車を車検(この制度も問題あり?)だからといって新車にしなければならないのか。なんで、使わない新機能が付いたからといって新しい携帯電話への買い替えをしつこく勧めるのか。全ては“売って儲ける”ことこそ〔善〕の経済活動の世界であり、そこに根本的な環境保護の概念など持ち込もうとしても無理があるのだ。
頭の硬く既得権が服を着て歩いているような老経営者や管轄業界との“調整”に忙しい官僚殿にとっては“生産量を減らせ”とか“Tシャツで会社に行く”なんてことは“若造が無責任にふざけたことを言うな!”と一蹴されてしまいそうだが、蹴っ飛ばされても言っておきたい。問題は自社のバランスシートを美しくすることや世間体なんかじゃなくて、極端に言えば子供や孫達の未来がかかっているのだ。そのときは“電波の届かない所”へ行ってしまっている方々の罪は問えないので非常に腹立たしいが、“まだ大丈夫じゃないの”と思っていると相当ヤバそうなところまで来ているようだ。
無計画な乱獲が種を滅ぼしてしまうように、エセ環境対策で“地球に優しい”なんて胸を張っているような企業ばかりだと本当に取り返しのつかないことになってしまう可能性は大きい。しかし、企業も個人も欲の塊である。環境保護のために自制するなど現実的に不可能に近い(それは毎日アルミ缶のビールを飲んでいる自分をみても分かる)。だからこそ税金でタガをはめたり、良識あるトップの至上命令が必要なのだ。
最後にもう一つ、企業にとって究極の“地球に優しい”とは“モノを作らない”ことなのではないのか?、必要なものを作って頂くのは大変ありがたいが、たいして必要でもないモノを市場に垂れ流しておいてほんの少しリサイクルと称して回収することで“地球に優しいカンパニー”などといった詭弁はもう苦しいを通り越して滑稽ですらある。毎日家族のためにと自分を犠牲にしてまで一生懸命働いているお父さんの仕事が、実は地球を汚し、種を絶えさせ、子供達の健康まで蝕んでいるとしたら悲劇でしかない。
坂を下るブレーキを持たぬ列車が行き着く先は暴走の挙げ句の崩壊だ。今必要なのは石炭でも潤滑油でもなく、摩擦を恐れぬブレーキである。そろそろ真面目に経済発展と自然環境を秤にかけるときではないか。
(№37. 草の根環境破壊 おわり)