最近犯罪の若年化が止まらない。嫌味な言い方をすれば日本もその意味では立派な先進国“らしさ”を発揮している。小さな子供を駐車場ビルから突き落として殺害した犯人が成績優秀な中学一年生だったことはショックではあるが、私は神戸の連続児童殺傷事件のときの容疑者補導の第一報がテレビのテロップに出たときのほうが衝撃が大きかった。児童の首を切り落とし学校の門に置いておくような凶悪犯罪の犯人が娘と同世代の中学生と知り、テレビを見ていた家族全員が軽い寒気と共に鳥肌が立ったのを今でもはっきり覚えている。以来、「兵庫県尼崎市の小学6年生による母親殺傷事件」、「福岡県小郡市の小学6年生による同級生傷害事件」、「沖縄県北谷町の中学生リンチ殺人事件」等々小中学生による凶悪犯罪が頻発している。おそらく私を含めた大多数の人が『子供に何が起きているのだろうか?』、『何が原因でこんなことになってしまっているのか?』、『日本の将来は暗い!』と疑問や失望の気持ちを抱きつつも、哀しいかな時間が経つと忘れていくのが現実ではないかと思う。若年層犯罪が稀であった過去では、個々のケースは特異なもので育った環境や与えられた境遇そして個人的な資質が犯罪を犯すことになったと結論付けてしまっても乱暴ではなかったと思う。しかし、今となっては歪んだ社会環境が小中学生の心を蝕んでいると思わざるを得ない。理想的に言えば大人が問題の本質を一つひとつ解明、解決して行くのが最善だが、専門家や公的機関がトライしても結果的に効果があがっていない(若年犯罪の件数が極端に増えている)のは何故だろうか。アジアの一小国から眺めると“理解に苦しむ”この問題、そろそろ本腰を入れて本質に迫らないと私達世代が老人となる頃にはとんでもないことになっているかも知れない。
ツメコミ教育、大企業神話、過保護な親、受験戦争、コンピュータゲーム、ホラー映画、希薄な友情、拝金主義、環境破壊、説明責任者不在、過激な性描写、家庭での躾不足、将来への失望、没個性教育、多過ぎる選択肢、情報の洪水、等々のキーワードが絡み合って子供達の心に翳を作っていくのだと思うが、子供を凶悪犯罪に導かない為の最大の要素は月並みだが“家族と地域”だと私は常々思っている。それは何も特別に難しいことではなく極端に言えば動物の持っている本能のようなものではないだろうか。生まれた子供を外敵から守り、食べ物を与え、可愛がり、叱り、一緒に暮らし、食べ物の獲り方を教え、そして巣立たせる。このサイクルで子供は愛される満足感を覚え、やってはいけない事を学び、社会性を身につけ、自立して行くのだ。しかし、この基本すらも現代では疎かになってしまっている部分が多々あるのではないか。父親は会社中心の生活で子供との対話も“忙しい”,“時間が無い”を言い訳にし避けてこなかったか?。母親は家で我侭に振舞う我が子を「勉強に影響があっては大変」と叱りもしなかったのではないか?。地域でイジメを目撃しても「注意して自分の子がイジメられてはバカらしい」と見て見ぬふりをしなかったか?。極めて単純な意見で恐縮だが、私は家族も地域ももっと勇気を出して且つ肩肘張らずに子供達と向かい合うべきなのではないかと思う。立派な親と賢い子供を演じ続けていたって埒があかない、良い例かどうかは読み手の判断にお任せするが、私がマレーシアに来る前に居た高円寺という所の話を書こうと思う。
私の暮らしていた東京杉並高円寺という所はJR中央線新宿駅から快速で二つ目の都心に近い住宅地だ。住人には学生と芸術や音楽(Rock系)を目指す若者が多く、彼等の溜まり場のパブ、ロックバーをはじめサラリーマン相手の赤提灯なども多く飲み屋街としても有名な所である。物価は比較的安く数年前からは商店街に古着屋が密集しだしたことに加えそのフリーな感覚から“日本のインド”と呼ばれたりもしているらしい。一見、ロッカー風若者達に占拠されてしまった感のある高円寺の街だが、さにあらず。実はこの街の中心的住人は古くから住む地元商店街のおじさん、おばさん達であり彼等の発言権も強いのだ。そこにPTA関連やら児童館と呼ばれる区の施設で活動するお父さん、お母さん達が“長屋的近所付き合い”で絡み合いこの街を一層魅力的にしているのだ。
私はここで長女が小学校に入学して間もなく小学校のPTAお父さん野球チームに誘われて入部した。そのチームには地元商店街のお父さん達も多かった。子供が小学校を卒業した後でもOBという肩書きでチームに残り野球を楽しんだり小学生チームの指導をしたりする人も多く、当時最年少(31歳)の私から私の父親と同じ年齢の人まで居る30人弱の文字通りの草野球チームだった。最初はあまり地域の人達との交流は乗り気ではなかったが、時間が経つにつれて仕事関係の仲間では味わえない“ほのぼの”とした心地良さに包まれるように感じてくるのだった。外部から見れば“野球やってビール飲んでるだけの集団”に映ったかも知れないが、皆子供を持つ親として地域の子達との繋がりを非常に大切にしていた。当時の監督は少年野球の指導中は当然としても、普段街のどこかで子供達とばったり会っても『おまえ達、大きな声で“こんにちは”と挨拶しろ~!』と親の前で臆面も無く指導していたのが懐かしい。最初は照れていた子供達も当たり前のように“こんにちは~!”と声を掛けてくれるようになるまで大した時間は掛からなかったと思う。 こんなこともあった。ある早朝練習の最中にキビキビ動かない主力選手達に向かって若手のコーチが『お前らやる気が無いんだったら帰れ!』と一喝、モジモジして煮え切らない主力選手達に追い討ちを掛けるように『お前らが帰れらなければ俺が帰る!』と言い帰り支度をはじめてしまった。自転車に乗りグランドの端で見ていた私にそのコーチが近づいて来てウインクしながら小声で『もう仕事だから帰るネ!』と一言。その練習の後、対応に困った主力選手達は皆で相談して若手コーチのお店に謝りに行ったそうだ。『あの時、どうやって謝るか皆で外で練習してたらコーチが突然現れちゃって焦ったよ。』と後で教えてくれたのは何を隠そう私の息子だ。 子供達の指導では声だけではなく手を出すこともあった。(その頃チームの代表になっていたので、正直に言うと古参コーチ達が子供に渇を入れているのをみると責任上ヒヤヒヤものだった。) それを知ってか知らずか、幸い先生方も教育委員会の人もPTA会長も当事者の親からも文句は言われなかった。引っ叩かれた子供も納得してたので親には言わなかったのだろう。『これはコーチと俺の問題だから親に言う必要は無い。』子供なりに男として一線を引いていたのだとしたら大したものだ。 “出ると負け”状態だった弱いチームが何かの小さな大会で勝ったときは応援に来てくれた父兄や先生達も含めて大いに盛り上がった。その晩親父コーチ達は地元居酒屋に集まって柄にも無く感涙に咽んだものだ。 地域の子供達との触れ合いは野球だけには止まらなかった。 父親同士の連帯を深めもっと地域で子供達を面倒みようと“親父の会”なる団体を当時のPTA会長、小学校の教頭、児童館の職員、お父さん野球部の有志、他で立ち上げた。結局、会の名称は父親の居ない子に対して失礼だしお母さん達だって参加したいという強い意見に押し通されて別の名称に落ち着いた。その後、校長先生や地域の役員さん達にも広がり、飯盒炊飯、キャンプファイヤー、校庭でのテント宿泊会、等々地震防災訓練も兼ねて実施した。参加してくるお父さんお母さん達の輪は広がりつつあったが、ある時期から(今考えると、行事が大々的になってしまった頃から)新規に加わってくる人が極端に少なくなってしまっているのが気懸かりになっていた。
俗に言うサラリーマン層の方の基本的なメンタリティは経済活動(平たく言えば仕事に関係あること)こそが“価値”であり、その他の活動はちょっと格の落ちる事と位置付ける傾向は否定出来ないと思う。『私はそんなことはない!』と反論される方が多いほうが良い事だと思うが、上司に対して『地域で野球大会があるので休出は出来ません。』とか『娘の誕生日なので今夜の取引先との接待は辞退したい。』などとは言えないことが多いと思う。特にPTAや児童館等に関連した地域活動などは人間関係や時間の捻出が億劫だと考えている人も多いらしく、参加を呼びかける側だった私も結構お父さんお母さん達を集めるのに苦労したものだ。本来、沢山の地元の子供達や家族と触れ合うチャンスを逸すのは子供にとっても自分にとっても残念なことだ。しかし、参加するとかなりの時間と労力を捧げないと続けられないボランティア的活動に対して二の足を踏む気持ちはよく分かる。(事実、やってて大変なことも多い)私の体験的ボランティア勧誘論は“無理なく継続でき、且つ、参加しないと損してしまう気持ちにさせること”だ。マレーシアに来てから立ち上げに参加した少年野球チームでは、やる気満々の方達からは当初「何もやろうとしない会長」というレッテルを貼られてしまったが、その後の活動内容で諸々ご理解頂けたと自負している。結局“子供の指導”などと言っても私や高円寺の人達がやっていたのは、親同士仲間になって一緒に酒を飲んだり、行事を計画して子供を巻き込んで遊んでいただけで、お役所が掲げるような立派な結果なんて最初から求めてなかったのだ。しかし面白いことに、その程度の活動がけっこう地域の風通しを良くして子供の心の健全育成につながっていたのではないかと今では思っている。
日本でもマレーシアでも小学生くらいの子供達は大方無邪気で可愛らしい。この子達を犯罪の被害者にも加害者にもさせてはいけない。その責任は我々親の手にあることを深く自覚しなければならない。新聞で読んだが、鉄道の駅でキレて暴力沙汰を起すのは20代と50代の男性が多いそうだ。将来に希望の見えない若者と、絶望の将来が見えてしまった世代の逆襲とでも言ったら暴言だろうか。我々世代(40代)は既に「豊かな老後」は半分諦めかけているが、将来の年金が多い少ないを心配する前に現役の親世代としてもっと心配すべきことが目の前に突きつけられていることを再認識しなければならない。
今年(2003年)に入ってお父さん野球チームで一緒に活動していた大好きな大先輩が亡くなった。危篤状態とメールを貰い見舞いに行き、次のメールでは葬儀の為に東京へ飛んだ。葬儀参列に来る昔の野球チームの教え子達は高校生、大学生達となり皆私より背が高くなり立派になっていた。現役の小学生チームの子供達も可愛いユニホーム姿で焼香に来ていた。近隣のお父さん野球チームのメンバー達も、一緒にキャンプファイヤーをやったお父さん仲間も集まって来ていた。葬儀の後、チームのメンバー皆で酒を飲んだ。辛いけど哀しい酒にはならなかった。飲みながら思った、今日は亡くなった大先輩が『前川よ、たまには今日みたいに昔の仲間と酒飲みに高円寺へ来いよな!』と呼んでくれたのかも知れない。理由もなくそう確信が持てるのが不思議だった。Sweet Home 高円寺 !!
(№35. 恐るべき子供たち おわり)