№33. 「テレビ=兵器」論


海外在住でこうしてホームページを出しているとマスコミから興味本位で「ネットで見つけた、日常生活を取材させてくれ!」といったメールが少なからず舞い込んでくる。こちらに取材されるだけの価値が有るか無いかは別として同じような境遇の方は経験があると思う。メールの送り手は雑誌、新聞、ラジオ、テレビなどけっこう幅広くなかには小額だが書いたものに対してギャラを払ってくれるところまである。彼等の話を聞くと日本で生活しいてる人にとって“海外移住”は、ある種の憧れと逃避願望もあって特集すると平均的にウケが良いとのことだ。私もその手の特集は好きな方なので気持ちはよく理解できる。どんな経緯で海外に行きどんな暮らし振りなのか興味深々といったとこだろう。取材の過程では「毎日リゾートのような海岸でお子様達は遊んでいるのですか?」などと見当違いの質問もあったりして結構笑える。しかし申し訳ないが実際は“毎日普通に暮らしているだけ”というのが現実だ。


私の場合は取材された企画が実際に採用されて世間(日本)に出たのは数えるほどしかないが、この少ない経験から言わせて頂くと新聞や雑誌は取材陣が丁寧で纏め方も上手いし発売された実物をわざわざマレーシアまで送ってくれるほど義理堅い。それに比べテレビの取材依頼は“ナニワ金融道”で有名な青木雄二氏も自身のエッセイで書いていたが非常に傲慢で結果的に無礼になる傾向が強い気がする。表面上は丁寧な物腰だがその裏には「出してやる!」、「断るワケないよね?」的な態度が見え隠れするのだ。また、何より憤慨するのは散々文章や電話でこちらから内容を聞き出しておいて企画の“採用”や“不採用”の知らせも送ってこないのには呆れる。《発表は賞品の発送をもって代えさせて頂きます。》の世界なのだ。最近不愉快だったのは大手テレビ局系列の「ポカポカ~(なんとか)」という番組(別に大した事では無いので実名を出したって良いのだが)の取材依頼だ。2002年11月にテレビ局の協力業者と思しきところから打診があり、こちらも「お~、やっとテレビが来るほどになったか。これで有名人の仲間入りだぞ!」などと勘違いして質問に真面目に答えていたのだが、その後パタリと連絡が来なくなり結局どうなったかも分からず終い、こちらとしても損も得も無いので忘れてしまっていた。ところが今年(2003年)に入りシステム開発作業の追い込みで忙しい3月後半に同じ番組の取材依頼を別の協力業者がして来たのだ。実際コンタクトを取って来たのは三次(四次?)下請けのフリーライターだったが、私は「以前にも○◇△という所からまったく同じ取材依頼があり、結果も知らせないで曖昧にする態度を非常に不愉快に思っている。」とハッキリ告げた。すると彼は自分のことではないのに丁重に詫びたうえで「この業界はそういう常識を欠いた輩が多いんですよ」とも「○◇△という業者は聞いたことがない。」とも言っていた。結局その彼も仕事上の行き違いでその仕事と縁を切ることになってしまったようだが、最後に「どんな結果でも前川さんには知らせるように言い残して来ましたから...」と言っていた。が、結果的には同じ番組に二度不愉快にさせられただけであった。


さて、上記は単なる愚痴と忘れて頂くとしても日本のテレビ(特に民放)は何と馬鹿げた番組が多いのだろうか。テレビが世間に与える影響度は計り知れないという事実を考えると番組制作に関わる人達の責任はかなり重要だと思う。“楽しければOK!”,“オチがあって笑えればそれで良し”,“視聴率アップの為ならヤラセも一手段”等々。この手の無責任なバカ番組を毎日垂れ流している局も局だが、何となく無批判にダラダラと観てしまっている視聴者も視聴者だ。現代社会においてテレビは世論を形成して行く過程で大きな影響力があることは間違いない。真面目な番組の報道でさえその真意を読み取る力が要求されるほど情報というのは多面的なものなのに、毎日クズ番組を観て笑っているだけだと誰かが意思(悪意)をもって扇動したり世論を誘導して行こうとした場合、いとも簡単に操作されてしまうのではないかと背筋が寒くなる思いだ。例えばクズ番組の時間帯が終わりニュースを観るとしよう。そこで報道されている政治問題などはさっきまでのギャグやヤラセではなく真面目で難しく事実が報道されているように誰もが錯覚してしまうだろう。もちろん事実は多いとは思うが、番記者(担当する政治家と密接な関係になり過ぎて糾弾すべき問題を隠す傾向にあると指摘する人も居る)と呼ばれている人達によって報道されていない(隠蔽されている)諸問題についてまで踏み込むことは不可能に近い。考えなくて良い事に慣れれば物事を考えなくなるものだ。源泉徴収のあるサラリーマンは税の納め方や使われ方について無頓着になるし、日米安保の傘の下では国防などといった意識は他人事である。いちいち欺瞞に立ち向かわなくたって充分食べていけるのだからと益々無関心、無批判、快楽追求型になっているのが大多数のクズ番組支持者の現状ではないだろうか。本来は国民を愚弄するようなクズ番組の垂れ流しは各放送局側である程度の基準を設け自粛すべきだと思うが、彼等も商売なので金になる方を選ばざる得ないのだろう。私個人的にはこの手の規制は国がガイドラインを作っても良いのではと思うのだが“表現の自由”とか“報道の自由”とか水掛け論になりそうなのでやめておく。ただ、このままだと既に米欧に烙印を押されている“情報を読めない国”から更に悪化して“情報に踊らされる国”になってしまっているのではないかと心配だ。


私は最近テレビはアヘンのような国を衰退させる一種の戦略兵器のようなものだと感じている。国民に考えることを放棄させ社会の欺瞞に目を向けさせないばかりでなく、流す情報によっては民意を操り扇動可能なかく乱装置。一滴の血も流さず効果をあげ費用は全額攻撃相手先負担というこんな効率の良い兵器がかつてあっただろうか。しかし、この兵器使いようによってはまったく反対の正義の箱にもなることは皆が知っている筈だ。凶悪犯罪に使われた包丁だって調理に使われていた時は大切な道具だった筈。時には心を癒すエンターテイメントも必要だろうが、外では軍事大国が小国を蹂躙し略奪の限りをつくし、内では私利私欲で動く巨悪が隠蔽されている今こそ欺瞞を暴き真実を伝え国民に正しい判断材料を提供することがクズ番組の粗製濫造にとって替わって彼等番組制作関係者の成すべきことなのではないだろうか。放送50周年の節目の今年が普及したテレビの持つ潜在的恐ろしさと本来の有用さを見出すきっかけとなれば暗い将来も少しは晴れるのではないかと思う。


その鍵を握っているのはマスコミ?国民の意識?いや、やはりこれはジャーナリズムの“良心”ではないだろうか。心あるジャーナリスト達に期待したい。


(№33. 「テレビ=兵器」論 おわり)

前のページ/ 目次へ戻る/ 次のページ