「週末を利用してシンガポールに行ってきた。」...などと書けばお洒落な旅のようだが、その前の週末も来客やらイベントやらでかなり疲労していたので実体は体力勝負の二泊三日であった。中学生の息子が所属する「マレーシア少年野球リーグ」という発足したての野球チームがシンガポールの日本人少年野球組織より招待されて大会に参加することになり、私は保護者兼父母会長としての付き添い参加となったのだ。このチーム、今年(2000年)の6月に野球に情熱を燃やす日本人指導者の下で発足し2000年12月現在で小学生、中学生合わせて60名にもなる大所帯となっている。私も実は日本を脱出する迄の約10年間PTA野球にドップリの生活をしていてチームやリーグの役員などを仰せつかっていた。その為、ほぼ毎週日曜日は野球やPTA関連の活動に時間を裂いていて、ある意味ではかなり拘束された生活をしていたのだ。野球の練習も周りの人間との付き合いも好きであったがさすがに10年近くもの同一パターン生活には少々疲れを感じていたことは確かだ。そんな訳で「マレーシアに行ったら野球(と言うかボランティア的組織活動)無しのユックリした生活をしよう」と密かに心に決めていた。しかし、来マ以来1年近くも“ユックリ”したせいで“何かして目立ちたい!”という持病が疼き始めてしまった。今年3月にはJAMAM(Japanese Amateur Mussicians Association of Malaysia)というアマチュア音楽組織に参加し20年ぶりに人前でバンド演奏する快感を思い出し、11月にはその発足以来ずっと横目で眺めては我慢していた「マレーシア少年野球リーグ」の運営に首を突っ込んでしまった。まさに自業自得である。
話をシンガポールへ戻そう。うちの家族は一度KLからバスで観光に行ったことがあるが私はシンガポールに入国するのは今回が初めてである。しかしチャンギ国際空港は今までトランジットで数回立ち寄ったことがあるし、食事や買い物の為にシンガポール$も両替をして持っていた。また、以前移住先調査の為に買った本「住んでみたシンガポール」や旅行するあてもなく見ていた「地球の歩き方 シンガポール」などである程度の知識もあった。まして、比率はともかく民族構成も近い隣国マレーシアに住んでいるので、私の中ではシンガポールは実際に訪れる前に既に外国では無くなっていたと言っても良いだろう。とは言え初めてこの国を旅行することには変わりはない、こんな機会でもなければ近すぎる隣国を旅することも無かったかもしれない。“野球の付き添い役”に乗じて「チャッカリ観光旅行をして来よう!」というのが私の密かな目論見である。その為に他の人達が共同バスで行くところを飛行機にしたし宿もファイブスター級の上物である。楽しまずには帰れまい!
金曜の夕方、仕事を早めに終えて家に帰り着替えとノートPCをバッグに詰め込み、テスト勉強で忙しい長女を家に残し家族4人は頼んでおいたタクシーで空港まで向かった。約70kmのドライブもこちらのタクシーは時速130~140kmでぶっ飛ばす為あっと言うに到着してしまう。待ち時間が気になるのはチェックインしてから飛行機に乗る間の1時間強だけで、離陸したと思ったら僅か45分で小さな経済大国シンガポールにもう着陸だ。殆どフリーパスの税関を抜けてタクシーに乗りホテル名を告げるとほぼ信号待ちなしでダウンタウンまで行ってしまったのには驚いた。道路際には日本の団地のような集合住宅がビッシリ詰まっているのでもう少し人や車が多くても良さそうだが本当に車がスムースに流れている。マレーシアの道路を走ると必ず見るエンストした車も無造作に捨てられたゴミも見あたらない。噂には聞いていたが改めて大したものだと関心した。しかし、オーチャードロードのイルミネーションが見えホテルに到着した頃には溜まっていた疲労で街にくりだす元気も無くなっていた。一応食事の出来るところを探したが適当な場所が見付からなかったので即諦め、その夜はホテルでバカ高いルームサービスを食って寝てしまった。「シンガポールは東京に似ている!」というのが初日の第一印象だった。
翌日の土曜日は早朝から本来の目的(?)である野球大会の付き添いで「トア・パヨ・セカンダリースクール」という団地内の学校のグランドに行った。シンガポールの日本人学校やアメリカンスクール、ローカルクラブチームなど合わせて10チーム程の小、中学校チームが集まっていて開会式も英語のアナウンスだった。シンガポール在住の日本人組織は相当しっかりしているとみえて、野球をはじめスポーツ関連の組織運営も非常にスムースなようだ。我々からみれば審判団の実力も大したものだし、ゲストとして横浜ベイスターズのバッテリーコーチをはるばる日本から招いたりすることはちょっと半端な組織では出来ないだろう。詳しいことまでは分からなかったがローカルの学校や外国人学校などとの横の繋がりもあるように思えた。シンガポールは殆どの日系企業のアジア拠点だけあって古くから日本人が住み着き、それに伴い日本人組織も拡充して来たのだろう、マレーシアでの日本人組織も大したものだが、なにか“歴史が違う”って印象を強く感じてしまった。さて、息子の所属する我KLチーム(登録名:ハリマオ)だが、発足したてということもあり関係者も当初は全5試合ボロ負けの予想をしていた。しかし、関係者一同の熱帯の日差しに晒されながらの応援に答え、意外にも善戦し初日の第二試合で勝ってしまうという嬉しいハプニングがあった。結局後にも先にもこの一勝だけだったがまあまあ満足してホテルに引き上げたが、炎天下で日中まるまるグランドに居たおかげで顔から首、腕や半ズボンの足など真っ赤に日焼けしてしまい、シャワーを浴びるのも辛いくらいになってしまった。同じような気候の場所に住みながらこれでは、いかに普段外に出ていないかが良く分かるというものだ。この日の夜は「せっかくここまで来たのだから」とオーチャドロードを制覇して旅行気分に浸ろうと思い実行に移したのだが、昼間の疲れと日焼けの痛さでどうでもよくなってしまい、結局高島屋SC内の日本人客の多いバカ高いステーキ屋であまり美味くない肉を食べて寝てしまった。「シンガポールは物価が高い!」が二日目の印象である。
次の日の日曜日も本来なら昨日と同じように野球の試合の応援をしないといけないところだが、このまま朝から夕方までグランドで野球の応援をして夕刻発の飛行機に飛び乗るなんて、約一月分の手取り額に相当する金額を使ってここまで来た意味が無くなってしまう。[グランドに行かない]→[チェックアウトまでホテルでユックリ]→[観光もバッチリ出来る]。ベッドの中で半分眠った頭をフル回転させる。[野球は昨日さんざん声も出して応援した]→[初勝利も目撃した]→[監督やコーチでも無い私がグランドにいなきゃならない理由もない]。どんどん自分勝手に展開して行くがもう一押しの理由がほしい。そうだ[昨日の炎天下で娘が具合が悪い]→[しかたなくホテルで寝かせておく]→[付き添いが必要]。ここまで考えればキマリである。そうと決まれば行動は早い、うちの奥さんに「今日俺野球行かない!」の一言と娘をおいて行かせる算段をしてそそくさとモーニングビュッフェに行って腹ごしらえと決め込んだ。落ち合う場所と時刻を決めて息子と妻がグランドに出かけた後、私と娘はホテルの部屋で小一時間ウトウトしてからおもむろに行動を開始した。12時のチェックアウトまでに戻る予定で前半のスタートだ。まずは気さくなインド系運転手のタクシーでお決まりのマーライオンパークへ行き煤けたライオン人魚の後姿を日本から来た修学旅行の生徒達と一緒に拝む。それから徒歩でグリーンの芝生のパダンを横切りシティホールをチラッと視界に納めセントアンドリュース教会をチェックし戦争記念公園の前でしばし立ち止まった。ここは第二次大戦中に日本軍がシンガポールを占領し華人を大量虐殺したときの犠牲者の慰霊碑だ。もちろん私も戦争は知らないが小さな娘にも日本人が犯した罪をはっきりと知って欲しいと思い説明して二人で合掌した。ちょっとシリアスになった後はラッフルズホテルで休憩し一気にブギスビレッジまで歩き露店街をひやかしてから中国茶屋で漢方薬入り茶と亀ゼリーを食べて午前の部のタイムリミットとなる。急いでタクシーでホテルに帰りシャワーを浴びて荷物を整えギリギリセーフのチェックアウトだ。重い荷物を持って観光はしたくないのでチェックアウトしたホテルに16:00迄の約束で荷物を預け午後の部開始となる。ジャン・レノ風の男が運転するタクシーでチャイナタウンを横切りラッフルズプレイスに行って貰う。日曜なので人影も疎らだったが近くのラオ・パサ・フェスティバル・マーケットまで歩くと昼時ということもありローカルフード屋台が結構賑わっていた。そこではマレーシアではあまり食べたことのない「フライドホッケンミー」と気分の悪い(嘘つけ!)娘用にピータン粥を注文しノンビリ食べた。値段は$3(S)と$4(S)でマレーシアで食べればRM3とRM4くらいであろう。大体シンガポール$とマレーシアリンギットが1単位で2:1なので約二倍の値段だ。シンガポールに来て今まで食べたホテルのルームサービスや金持ち日本人向けステーキなどとは比べ物にならないほど安いがマレーシアに住む者にはかなり高く感じるローカルフードだった。食事の後は休みのシアンホッケン寺院を外から眺め近くのモスクや寺院などを横目に観てOCBCセンターを抜けボートキーでベンチに座りシンガポール川越しにラッフルズ上陸の地に立つ白いラッフルズの背中を眺めていた。その前を隅田川で観るような遊覧ボートが横切ったので即断で乗り込みクラークキー~マリーナベイをグルリと回り午前中に初対面であったあのマーライオンと正面からの再会を果たした。ボートを下りるとそろそろ本当に気分が悪くなって来た娘を引きずりタクシーでフォートカニングパーク横にあるシンガポールヒストリーミュージアムまで行った。その間一回もタクシーの運転手にはボラれなかった、というより細かなお釣りまで丁寧にくれる程皆紳士であった。特にシンガポールヒストリーミュージアムまで乗せてくれた話し好きなインド移民の運飲手さんは「遠回りしちゃったから$4で良いです。」なんていう正直者で(同じ事を何度も話すのでちょっと疲れたが)非常に気持ちよかった。ヒストリーミュージアムはというと占領時代の日本軍を暴く内容のものが多く、その場に居た日本人は私と娘だけだったようなので非常に肩身の狭い重いをした。大戦中に日本が占領していた地域の地図を見て9歳の娘が「日本があんなにアジア全体を占領していたなんて信じられない!」と言っていたのが印象的だった。シンガポール独立までのコーナーも不穏な国の動きがよく表現されていて見ごたえがあったし、マレーシアとの関係等々もっと時間があったらじっくり見てみたいと思わせる内容であった。ホテルに帰る為に乗ったタクシーのお兄さんに「ミュージアムはどうだった?」と聞かれたので、言葉につまった挙句に「非常に日本人として申し訳無いと思っている」と正直に言ったら、「何いってんだい、もうあれは歴史だよ。我々ニュージェネレーションは上手くやっているじゃないか!」と慰められてしまった。「シンガポールには日本人がいっぱい居るよ、だってこの狭い土地に日本人学校が二つもあるんだぜ。」と彼、「別の意味の侵略だね」と私、「いやいやそれぞれの人種の良い部分を取り入れて上手くやっているのがこの国なんだ、侵略じゃないよ...。」その後は他愛の無い話しをしてホテルで車を下りた。ホテルで預けてあった荷物を受取りロビーでさっきのタクシーでの会話を反芻していたら戦争記念公園から重かった気持ちが少しは軽くなった気がして来た。ふと、時計を見ると約束の時間まで30分ある。「気分が軽くなったところでタングリンロードのカフェでビールでも飲むか!」億劫がる娘をつれて近くの通りのアウトドアー席へ。娘はシェイク私は興味本位で頼んでみた“SAKE ATSUKAN”を32℃の野外でちびちび飲みながら空を眺めると何やら雲行きが怪しい。「雨かな」そういえば幸いシンガポールに来てまだ一度も雨を見てない。いそいそとタクシーを拾い待ち合わせの場所である“トア・パヨ”と告げた途端にフロントガラスにポツリと来た。息子と妻をピックアップして空港へ向かう途中で本降りのスコールになった。「グッドタイミング、今回は疲れたけどなかなか面白かったなぁ。」そう呟くと車の中で急に眠気が襲ってきた。炎天下で飲んだ“SAKE ATSUKAN”が今ごろ効いて来たようだ。
(№11.シンガポールで考えた おわり)