№27.旅芸人達の記録〔後編〕


目覚まし時計代わりの携帯電話のアラームが鳴ってもなかなか起きられなかった。眠気覚ましにベッドでコーヒーでも飲みたいところだが部屋にあるネスカフェのインスタントでは味気ないので妻と娘を起こしてロビー横のレストランへ下りて朝食をとることにした。 ひどい寝癖の髪を先に来て食事していた仲間達に笑われたが気にせず欧米風の朝食にサンバルを加えて食べた。サンバルとは海老などを発酵させて唐辛子を加えたミソのような外見の食品で、日本人にとってはかなり辛くてあまり朝食に食べたいと思うようなシロモノではないが、パサパサのインディカ米にゆで卵と揚げた小魚とピーナッツをすこしのせサンバルを添えたナシレマッ(ク)などはマレーシアではごく普通の朝食とされているのだ。ベーコン&フライドエッグにトーストのようなメニューの他に中国粥やインドのロティチャナイ、そしてサンバルのようなものまで置いてあるのはマレーシアのホテルならではの楽しみだ。 食べ放題の為普段より多めのカロリーを摂ってしまったことに後悔しつつレストランを出て荷造りのため部屋へ急いだ。ガラス張りのエレベータから見る外の風景はどこか灰色っぽく、チャイニーズニューイヤーのイベントを知らせる装飾なども妙に陰気な印象だ。ギター2本と荷物をパックしてチェックアウトを急いだ。前夜チェックインした時に備え付けの冷蔵庫に鍵がかけられていたのでフロントにリーダーがクレームを言ってくれてわざわざ開けてもらったわりには何も消費しなかったことに気が引けるが勘定はRM150(約5,000円)だった。ただ寝て、朝食を食べただけだったので勿体無い気もするが、マレーシア価格でもパンパシフィッククラスで親子3人泊まって朝食付5,000円は“お得”な部類だと思うので諦めることにした。


集合場所のロビーで待っていると流暢な日本語を話す中国系のバス添乗員がやって来た。バスはジョホールバル(JB)のこのホテルから国境を越えてシンガポールのマリオットホテルまでとその帰りの移動に使用するためにチャーターしたものだ。距離は短いが出入国や通関やらでけっこう手間と時間がかかるので添乗員がいて諸々指示してくれるのが助かるのだ。一般的には単純労働である運転手はインド系かマレー系だが、接客能力や語学力が要求される日本人観光旅行の添乗員は中国系が多いようだ。今回の添乗員も日本での生活経験があるのか観光客相手で培ったのか日本語と日本人の扱い方は慣れているようだった。余談だが中国系の人達の語学習得能力には驚かされることが多い。以前日本の飲み屋で上海から来て六ヶ月という女性と話す機会があったが、日常会話はほぼ問題なく出来るようであったし発音やイントネーションも日本人のそれと同じであった。ここKLに居るごく普通の中国系マレーシアンも英語、マレー語、北京語、広東語そして親の故郷の言語(客家や福建語)など全て喋ることが出来る人は決して珍しくない。その上難しい日本語まで覚えてしまうのだから第二言語としての英語に悪戦苦闘している身としては恐れ入ってしまう。おそらく世界中に散らばった華僑は歴史的背景や生きていく上での必要性から脳の言語野が特別に発達したのだと思う。島国で単一民族国家の日本人が長い期間英語を学習しても使い物にならない場合が多いのは英語教育の問題ばかりでは無く、民族的に脳のある部分が必然性がないので発達していないのではないかと常日頃思っている。まあ、それ以前に母国語である日本語での会話すら満足に出来ない若年層が増えているのだから正しい日本語の先行きを案じてしまう。(最近はPCが無いと漢字もろくに書けない私が言えたセリフではないか。)


チェックアウトを終えて集まって来た仲間達とホテルのエントランスで迷惑がられるのを無視して記念の集合写真を撮りバスに乗り込んだ。大型バスに乗客10人だけなので楽器を客席に持ち込んでもかなりの余裕だった。JBのホテルからシンガポールの国境は目と鼻の先の近さだ。添乗員から配られた一部記入済みのシンガポール入出国カードの記載が間違っていたので書き直している間に繁華街を抜けて国境のコーズウェイ(JBとシンガポール島を結ぶ橋のような道)に入っていった。サッカーワールドカップフランス大会の岡野がVゴールを決めた最終予選がJBで開催されたときはこのコーズウェイを沢山の日本人が歩いて渡ったと聞いたことがある。その橋の中間にある境界線は国境だが特別な印などつける必要がない、ラフな道路のマレーシア領から突然綺麗に舗装されたシンガポール領へと変わるので誰が見ても国境だと分かるのだ。何事につけてもテキトウなマレーシアに慣れ親しんだ我々一向は規律正しいシンガポールへと来てしまった実感をこの線を越えた瞬間に自覚する必要に迫られるのである。この線から先は規則違反である“遅刻”や“はみ出し駐車”などは勿論ダメ、まして“ゴミのポイ捨て”なんかはもってのほかだ。生憎、遠足気分でいい加減なマレーシアの習慣を引きずったまま国境を越えようとしている我々には後に振りかかる諸々の批判などこの時点では予想もつかなかったのだ。


一旦はイミグレと税関のためにバスを下りたが我々全員呆気ないほど簡単にマレーシアを出国しそしてシンガポールに入国してしまった。心配された楽器の持ち込みもバスから下ろす必要すらなくすべてフリーパスだった。まあ、毎日マレーシアからここを通ってシンガポールに働きに来ているひとも多いらしく出入国のスタンプすら押すか押さぬか選択自由な程の簡単さだ、従順で世界一簡単に大金を使い、短い日程で去っていく日本人を歓迎しないワケなどある筈がない。日頃日本人のライフスタイルについて色々難癖をつけているが、こんなときは日本国籍サマサマである。


バスは気持ちよく舗装された道をホテルのあるオーチャドロード目指して走る。途中、今回のライブ会場である日本人会のホールが見えたが、その時はあまり大きな建物には見えなかった。暫くして車の往来が激しくなりバスが徐行はじめたと思ったら、もうホテルの横に到着していた。“マリオットホテル”と言う響きからは想像出来ないくらい東洋的な建物の裏口から中に入りチェックインを済ませた。すぐにコンサート会場である日本人会のホールに向わなければならないので、先に到着していたブルースハープにロビーで楽器を見張ってもらっておいて部屋に入った。高いホテルだけあって調度品類はなかなかおしゃれで良いが窓からの景色が東京と似ているのと部屋が小さいのにはちょっと失望だ。落ち着く暇もなく再びロビーで集合し大きなバンのようなタクシーをチャーターして楽器を積み込みメンバー7人すし詰め状態で日本人会のビルへ向った。私の妻と娘そしてシンガーの奥さんと息子はコンサートがはじまるまで市内観光の為一旦別行動だ。日本人会に到着し建物の中に入ると予想以上に大きなところだった。ちょっとしたショッピングモールを思わせる造りはいつも見慣れたKLの日本人会の建物と大差はないだろうと想像していた私にはちょっとショックだった。清潔感溢れる内装、豪華な飾り付け、驚いたことにファミレスやラウンジバーのような店まで入っている。すれ違う親子連れの小奇麗な服装や上品な物腰の前では自分がKLという地方都市から出て来た“おのぼりさん”のような気分になると同時に、大企業の受付で社名と氏名を書かされている時のような卑屈な感覚におそわれてしまったのが不思議だ。やはりここはアジアの中心都市だけあってこの地で働く日本人は多い。日本人が多ければ日本製品も豊富になるし習慣や雰囲気も日本化した状態になってくるのだろう。その建物の中には清潔で規則正しい“私の好きな日本”と、反面どこか息苦しい“私の嫌いな日本”が同居しているのを感じてしまうのだった。


早速、コンサートの会場であるホールに入り現地の日本人軽音楽サークルの代表の一人を訪ねた。簡単な挨拶を交わした後に昼食をとっていない我々を、決められた集合時刻は過ぎてしまうがファミレス風のレストランへと案内してくれた。レストランで順番待ちしている間に仕事で先にシンガポール入りしていたピアニストも合流しここで全員集合だ。はなから遊びのつもりで来ている我々は早速ビールをオーダーしカツドンやらメンチカツ定食などを注文しダラダラと飲み食いしていたのだが、集合時刻に遅刻してまでダラダラと飲み食いをして機材のセッティングも率先して手伝おうとしないと写ったか『なんと非協力的な人達!』と批判的な目で見ていた人も居たらしいことを後で知った。シンガポール日本人会の軽音楽クラブの人達は会場の設定から音響の調整まで全て自前の機材を使用し自分達で運営する方法をとっているようで、我バンドのように全て業者任せのノリで対応すると『ふざけた連中だ!』と思われても仕方が無いのかも知れない。この後KLから応援に来てくれたハードボイルド好きのロック親父二人と合流しほぼ缶詰状態で出番を待つのだった。


リハーサル中に他の出演バンドの音は全て聴いたので特別に興味を持ったバンド(JAZZバンド)の出演時間以外は本番中はほとんど楽屋で過ごした。 その間もテレビ局のADのようなヘッドセットをつけて会場を忙しく走り回る地元軽音楽クラブの運営メンバーを尻目にビールを飲んだり記念撮影をしたりしていた。せっかく交流に来たのだからと他バンドのメンバーに話かけて楽器の話などをしたり、私からすると子供の世代だが人見知りをしない高校生バンドのメンバー達に音楽のウンチクを垂れたりして時間を潰した。後日『KLの人達は積極的に交流しようと努力されていなかったのは何か気分を害されたのでしょうか?』と批判まがいのメールを頂いたのには呆れてしまった。一人一人に名刺をくばり『宜しくお願いしま~す!』と挨拶して回るべきだったのだろうか...オジサン達つかまえて説教とはね。(笑)。


我々の演奏自体は遠征地ではあるがけっこう自然に出来たと思う。今回は会場が日本人会ホールということもあり日頃演っているパブやパーティー会場のような酒絡みの即興ノリは無く、一番気を使っていた“制限時間オーバー”も無く予定通りツツガナク終わった。閉会後ラウンジ風バーで“打ち上げ”が行われビールを何杯か飲んでお開きとなった。その後、今回の出演グループ中特にカッコ良かったJAZZ系グループのピアニストと当地でセミプロとして活躍しているドラマー達と繁華街(場所は忘れたが欧米人が多い有名な所)のクラブに行きバーボンを飲んだら疲れでフラフラになってしまった。そろそろホテルへ帰って寝ようかと思っていたら、我々のドラマーが既に演奏しているバンドに“乱入”していて暫く付き合うことになってしまった。挙句の果てには私もギターを持たされステージに上がってヘロヘロブルーズを演ってしまった。演奏曲がJAZZに変わると難しくてお手上げ状態、ステージ上で「俺は疲れているのにこんなところで何をしてるんだろう...」と反省しきり。結局ホテルへ帰ったのは午前2:00前後で『高級ホテルで贅沢感を満喫する』目論見はみごとにハズしてしまったのだった。


翌朝、せっかくの高級ホテル滞在を満喫出来なかった腹いせにブッフェで食べまくり(ここのブッフェはJBのホテルと比べると実に美味かった)、バスルームからシャンプーやら石鹸やらを全部バッグに詰めてチェックアウトした。お決まりの集合記念写真をロビーにいる客に無理やり頼み(カメラ三台分も)撮ってもらい国境超えのバスを待った。厳密に知らせておいた筈の予定時刻を過ぎても来ないバスに当日日本出張予定のドラマーが心配そうだったが、私は“規則づくしのシンガポールの奴も時間に遅れることがあるのか”とちょっと安心したような気になっていた。到着したバスの日本語を話すチャイニーズ添乗員を同業者でもあるリーダーが陰で一喝したためか日本人のように深く頭を下げて謝る姿がちょっとかわいそうだった。一喝した後のフォローか優しい態度のリーダーの振る舞いに尚更不気味なものを感じるのであろう、添乗員君ビビリまくりでますます痛々しかったが幸い国境越えにたいして時間は掛からないのでちょっとの辛抱で開放してあげられそうだ。国境越えの途中マレーシアの入国の際に楽器持込で引っ掛かった。シンガポールで購入してマレーシアに持ち込んでいると思われたらしい。先に税関に行ったベースマンがしきりに調査官に問い詰められている。後続の我々も同じように大きなケースを持っていたので調査官達は“しめた!”と思ったのか“徹底的にやるぞ~”といった態度でこちらを攻め立てて来た。せっかく滅多に出さない“やる気”を出した彼等には申し訳ないが、仲間の勧めで作成しておいた持込楽器の通関リストを提出したら“やる気”もみるみる萎んでしまったようだ。「行ってよし!」不機嫌そうな調査官を尻目に通関リスト作成を勧めてくれた仲間に感謝するのであった。


無事にマレーシアへ入国できた。どうみても建物は煤けていて街は雑然としている。ましてシンガポールから来るとその度合いが余計に目立つ。「この国はどうして綺麗にしようとか努力しないんだろうね。」入国後バスに乗り込み周りの景色を見ながらサックスのジョージがポツリ言った。そう、確かにマレーシアは我々日本人からみると色々な部分で努力が足りないと思われることが多い。完成したての道路に穴が空いたり、レストランの内装がボロボロだったり、 作らせたソフトウェアはバグだらけだったり...。その点日本やシンガポールは行き届いているし安心感もある。でも何故かここには日本やシンガポールだと感じられない心地良いルーズさがある。私もマレーシアに暮らして3年を過ぎたところなので手放しのマレーシアファンでは無い。が、日本やシンガポールに行くと感じてしまうあの切迫感のようなものからは常に「早く開放されてマレーシアに帰りたい」と思うのである。単なる人口密度の問題か“住めば都”なのかも知れないが...。


JBのパンパシフィックホテルでバスと別れを告げ、預けておいた車に乗り換えた。これから果てしなく続くパームツリープランテーションの中を一路KLへひた走る。「この国に感心することはあまり無いけど道だけはいろんなところまで良く造ってあるよね。」とハンドルを握りながらリーダーが言っていた。


次の“旅芸人達”の行脚はその道を北へ、ぺナン島だ。


(№27.旅芸人達の記録〔後編〕 おわり)

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